ヒーローと倫理


ようやく遅ればせで手に取った宇野常寛著『リトル・ピープルの時代』の、平成ライダーを論じた第二章を、とりあえず他の章に先行して、昨日あたりからぼちぼち読み始めたところ。

そこでEテレ録画の特集番組で取り上げられた、中江兆民著『一年有半』に思うところ多々あり、

わが日本 古(いにしえ)より
今に至るまで 哲学なし ※

哲学とは、物事を深く考えることだとの見方に頷きつつ、
だが上記のごとく嘆いてみせた兆民以降も、「日本に哲学なし」の指摘はいまだ有効と言わざるを得ない現代日本人が、3・11の未曽有の悲劇に遭遇し、それでも「311以前と変わらず」グローバル資本主義経済の論理を大前提に、ヒーローのあり方を規定するのには、どうにも賛同し難い引っ掛かりを覚える(まだ終わりまで読了してはいないが)。

そもそもライダーには、ショボイ現実より一段高みにある「あるべき(ありたい)夢や理想」に(ひと時であれ)酔いたいと思うのだし、
その当のショボイ現実たる「格差社会、あるいは自己決定/自己責任を基本とする新自由主義的な社会(p264)」をご丁寧にも作品に反映させてまで、生き方指南のお節介(クウガでの五代の恩師が語る道徳観を一笑に付し、ひとりよがりのお説教だと揶揄するなら、コレも一種のありがた迷惑なお説教となろう)は、正直かったるいという他ないのだ。
せめてライダーくらいは途方もない理想の大風呂敷を広げて、大馬鹿野郎と紙一重の活躍を見せてくれたっていいじゃないかという気持ちが、たぶんどこかにあるんだろう。
ちなみに同様の情熱がフォーゼの脚本家に、弦太郎のキャラを創作させたのではないかと思っている。

龍騎』について
”基本的に「悪」は存在しない”
(正義も悪もなく)”あるのは欲望だけ”
”あとはいかにケリをつけるか(ゲームをプレイするか)”
グローバル資本主義は)”あらゆる物語(たとえば正義/悪)を欲望として(商品として)等価に扱う、それだけ”

などとする、倫理の著しく欠落した個人のエゴ優先を当然とする考え方を基調に、ヒーローを定義することへの疑問をもった。
しかも、13人もの他者を妹の生命を救う踏み台にする所存で、無情なライダーバトルを仕掛けた神崎兄の「行為」(彼という人間でなくあくまで行為)は、著者が存在しないという「悪」に、どう見ても該当すると思うのだが、
その悪行も含め、「全てを無いこととする」ご都合主義の最たるリセットオチをラストで発動、「正義はない、あるのは個々人の祈りだけ」と取り澄ました(何の意味も価値もない)綺麗事でお茶を濁してみせるという、冗談のような作り手の(じっさい体のいい)責任放棄とエゴが露呈したことへの不信感と失望は、今も強烈に後を引いていたりする。

仮面ライダーが倫理を無視して構わないようなコンテンツでないことは、昭和から続く歴史を蔑ろにできないと感じる者に、今更な認識として動かしがたくあろうし、その愛着には倫理という一本の筋が通っているから、懐古に溺れたヌルい郷愁とは別物だろう。
また昭和ライダーを稚拙と見る向きの理屈は大抵が、内容にのみ特化した批判だが、それは片手落ちというべきだ。
昭和ライダーに寄せる人々の、ともすると現物より誇大した良イメージに傾きがちなのは否定しないが、ただそういう妄想を楽しくふくらませるだけの、菊池俊輔による楽曲の力、というものが絶大に寄与していたのも事実だろうから。
昭和ライダーにとって、菊池楽曲と内容(主に変身からバトルになだれ込むくだり)は、切っても切り離せない密接な関係性にある、といえるのではないか。

ライダーとは本来、こうありたいと憧れるファンタジーを体現する象徴的存在ゆえに「ヒーロー」と見做されるわけで、卑小な自分自身の悩みだの葛藤だのに始終かまけて、他者のことは気が向けば助ける程度の、エゴ剥き出しの気分野郎がヒーローを気取ることに違和感を持つのは、至って真っ当な反応ではなかろうか。

仮面ライダーは人間の自由のためにショッカーと戦うのだ」という初代のナレーションにある、自由のために戦う、という文言を、お飾りのハッタリだと決めつけるのに同意し難い心情もまたライダーソングに負うところ大きい。
荒野を渡る風、飄々と、で始まる歌(ロンリー仮面ライダー)を聴くたび、胸にじんと沁み入る心地がするのだが、先日の大河ドラマ平清盛』における、風にざわめくススキの原のシーンに、思わず知らずこの歌を思い出したことだ。

仮面ライダーの理想に、理より情や倫理に基づき行動するヒーローの典型像を求める昭和の曖昧な印象があったとして、それのどこが見下すに値することなのか、
同調圧力を互いに仕掛ける殺伐たる対立より、互いの違いを認め合う寛容を重視することこそ、ヒーローに究極欠くべき資質ではないのか、
またその点に於いて現行ライダーの方向性はある意味「龍騎」の反面教師的な展開にも感じられる。
(敵となった学友たちを相手に小競り合いをする愚を、主人公と一部の協力者は見抜き、早い段階から倒すべき照準は彼らを陰で操るラスボスに向けられる。つまり龍騎における、陰でライダーバトルを操る神崎兄の行為を「悪」と見定め否定しているに等しい点で、一種の龍騎批判とも読める)


わが日本 古(いにしえ)より
今に至るまで 哲学なし

そもそも国に哲学なき
あたかも床の間に
掛け物なきがごとく
その国の品位を劣にするは
免るべからず

哲学なき人民は
何事をなすも
深遠の意なくして
浅薄を免れず

独造の哲学なく
政治において主義なく
党争において継続なき
その因 実にこれにあり

極めて常識に富める民なり
常識以上にぬきんでる事は
到底望むべからざるなり