ヒーローと倫理(追記)


長くなったので別記事としてアップ。

1/10付記事の続き。


911以降の行き過ぎた自己利益追求、ようは自分たちが満足する結果なら、その過程において他者を犠牲にして構わないとする態度を、口当たりのいい正義という便利な言葉でくるみ、終わりなき衝突を飽きず繰り返す、間抜けな世界の有り様に対する人々の醒めた嫌悪感を巧みに利用して、「正義」も「悪」も存在しない、と簡単に言い切ってしまう、その「ベルリンの野うさぎ」を想起させるような
(長くベルリンの壁に隣接する東西の緩衝地帯に放し飼いにされていたうさぎたちは、世情の変化に伴い次々と銃殺される憂き目に合うも、多くは逃げることもなく、ぼんやりとその場にうずくまり、撃たれるがままだったという)いかにも平和ボケ日本の脳内理論を信頼しすぎる脆弱さ(それは原発に対し「不測の事態が起きうる可能性の著しい低さ」を示す適当なデータを盾に、長年にわたり楽観的態度を押し通してきた鈍さにも通ずる)というかリアリティの欠如に危惧を抱くのも致し方なきことだろう。

龍騎に関しての

仮面ライダーたちがそれぞれの正義、いや欲望を掲げて殺しあう展開は、ヒーロー番組こそが「こんな時代だからこそあえて」「勧善懲悪を子供たちに教える」「教育番組でなければならない」と主張する中高年の消費者層=本郷猛から「正義」を教わった世代の消費者層からは強い反発を受けることになった。(『リトル・ピープルの時代』p267)

と、「正義」とは硬直したネガティブな同調圧力とする見解以外の意味を意図的に切り捨てているのにも、そこは正義というより倫理とか道徳の問題なのでは、と巧みに言葉のすり替えがなされている気がするのにも、引っかかるのだが、
上記に続けて、しかし作品のヒット(関連商品の好調セールス)を理由に、コアターゲットたる子どもたちには支持された、という理屈で(その時点で競合する、たとえば倫理面を重視するなどの違う方向性の作品などなかった、つまりあくまで「複数の中から意識的に選択された結果ではない」事実を巧みに隠蔽する形で)

「子どもたち」は世界がもう少し単純だった頃に帰りたい大人たちのノスタルジィよりも、現実を受け止めた新しい表現を選択したのだ。(同)

と無理矢理に結論づけてしまう論理展開では、それこそ著者が一定の理解を得たいと期待する(らしい)昭和ライダーファンを納得させることは到底難しいように思う。

また昭和ライダーへ寄せる当時のファン(私個人はその立場ではないのだが)の心情を自分なりに慮るなら、偉大なる菊池俊輔作曲のライダーソングの印象があまりに圧倒的で、現物以上の高評価を下している点は否めないにしろ、逆に考えると(繰り返すが)そう熱狂させるだけの力が、当時のライダーソングにはあったのだろうと、実際聴いてみて心動かされた個人的経験からも感じるのだし、あの菊池楽曲を抜きに昭和ライダーを論じても、あまり意味がないような気がする。

というか昭和ライダーファンも含め、あの菊池ライダーソング的世界を、実際の映像作品で観たという記憶が正直ないのが、「ああいうヒーローのあり方を恋しがる」今でも潰えない心情となって、いつか観てみたい願望として残っている、美しく儚い希望として続いているんじゃないのか、そんな風に最近思うことだ。