ヒーローと倫理(3)


前回記事まではまだ途中段階だった宇野常寛著『リトル・ピープルの時代』の第二章(『ヒーローと公共性』)のみ、ようやく読了したので、(なにしろ引っかかる箇所が多すぎて読み進むのに難儀するあまり、思いのほか時間がかかってしまったんだった)、ここではざっと疑問点だけ書きだしてみる。



まずは東映元Pの白倉伸一郎の見解を支持する形で、その著書より引用された以下について。

〈ヒーローというメージがもつ社会的な機能の本質は友敵の峻別にこそある> P278

この見方に真っ向から意義を唱えたのが、現行放映中のフォーゼ(の脚本担当陣たる中島かずき三条陸)ではないかと思う。
主人公の如月弦太朗は、気に食わない奴ほど面白そうだと興味を募らせ、学校中の生徒と友人関係を結ぶのを目標とする。
友敵を峻別する先導者でなく、違う考えや立場の人間同士を融和させる、媒介者としての役割を前面に押し立てたヒーローという、ユニークな立ち位置の者が新たに出現した時点で、この白倉の主張は少々前時代的なものに後退した感がありはしないか。

クウガ』における、悩みを抱えてふらりと栃木から上京した生徒を過剰に心配する担任教師を筆頭に
〈大人たちが大騒ぎで奔走し、「今の子どもたちは」とくさす〉P280
〈都市中心的・管理主義的・秩序思考的な世界観> P同 

上記の批判は、具体的には第二十五話『彷徨』と第二十六話『自分』の前後編に登場する担任教師の、教え子を心配しての道徳的言動(いかにも学校の先生らしい硬直した道徳観が反映された愚痴)と、それへ賛同を示す大人たちを批判したものだが、しかし彼らを引きで見るとしょうがないなあと微笑むしかないというか、元来、生徒のちょっとした異変を深刻に受け止めるような愛情あふれる先生というのは、めんどくさい半分ありがたい半分の、なんとも厄介な大人の一種であって、それでもそんな大人よりよほど聡明な子どもの方は、なにより自分を真剣に心配してくれるその心をこそ、まっすぐに見抜くから、たとえ今ひとつピンと来ない類の心配であっても、それを理由にグレるなどという事態になるとは、少なくともあの生徒に関しては、考えにくい。
また五代をはじめとする大人たちも、説教めいた愚痴より先生の想いの方を重視しての、相槌打ったり同感を示した部分もあったかもしれない、と考えるのも十分アリだろう。
クウガという作品は人間の場合に限りだが、わけわからんお説教をかます先生という異物であれ、中二病的態度で周囲を振り回す蝶野という異物であれ、周りが親身になって話を聞き、誰もが積極的に仲間扱いしてくれる。
と、過去記事でやった作品批判以外なら、このように進んで擁護ができる理由は簡単で、批判点以外でクウガを嫌う理由など全くないからである。



<彼ら(オルフェノク@引用者注)にモノカラーの身体を与えたのは、世界が個人の生を意味づけないリトル・ピープルの時代の壁=システムなのだから> P295

オルフェノク(と呼ばれる555に出てくる異形の者たち)は突然変異により自然発生したわけでなく、人為的(という意味に当然なるであろう)「システム」から創りだされた恣意的存在、との解釈は、しかし果たして妥当なのか。(私個人の認識含め、人間の一種の突然変異体との理解が、ごく一般的ではなかろうかと思うので)。
システムという表現が、この場合に正しく該当するかも含め、今のところ大いに疑問が残る。


〈かつて仮面ライダーたちを「変身」させたものは身体に埋め込まれた「聖痕」だった。その傷痕こそが逆差別的ナルシシズムを記述し、異形の存在に肉体を変化させる。だが平成に蘇ったライダーたちはこの回路を拒否した〉p310
仮面ライダー電王にとって「変身」とは、他者――具体的には仲間のイマジン(モンスター)を自分に憑依させること(他者をインストールすること)である。エゴの強化からコミュニケーションへ――仮面ライダーはもはや誰かとつながることなくしては「変身」できないのだ。〉p310

仮面ライダーという異形の姿が、ナルシシズムやエゴを強化させたとする主張に強い引っ掛かりを覚えるのは、先月終了した実写版の妖怪人間ベムでも感じたことだが、強制的に異形の姿に改造された(人工的に創りだされた)自らのアイデンティティを確立するための方途を、彼らは嫉妬や羨望といった負の感情を暴走させた結果の、人間全般への復讐という道でない(その誘惑は拭いがたくあったかもしれないのに)、逆に人間への無償奉仕の生き方を選択したことに、ナルやエゴで説明される以上の感銘と説得力を受け取っているからだと思う。(詳しくは過去記事参照で)

電王に関しても、良太郎は他者(イマジンたち)をインストールする(とは、自分の内に取り込むという意味合いかと思うが)というよりは、自らの身体をポンと明け渡すイメージのほうが、より適切な気がする。彼の利益には全くならず、ほぼ人助けのボランティアに近い、他者に身体を貸すという変身の性質上からも。
イマジンと入れ替わる際に、彼の自我が、自意識が後退し、その身体を気前よく他者に貸し与えて、彼は彼でなくなる、彼本来の意識が、主体から離脱して背後に遠のくのだ。
それはイマジンたちに良太郎が最初から一方的かつ完全に信頼し切ったから可能な、恐ろしく勇気ある行為だ。自分が自分でなくなり、勝手に他人に弄られることを恐怖と思わず、どうぞ、と解放する、明け渡す度量は、100パーセント相手に委ねて悔いなしと思い切る勇気あればこそで、めったに真似のできることではない。
個人的には時代を問わず、仮面ライダー仮面ライダーたらしめる大事な共通項の一つが、我が身の利益を顧みない、また我が身を無にしても構わぬ決意で臨む、他者優先の思いの強さが必然としてさせる献身行為だと思ってる。
突如として降りかかる暴力から、他者を全力で守り、身を呈して庇い、感謝の言葉も聞かぬ内にその場から去っていく、何の見返りも期待しない無償の人助けをやる、天然の大馬鹿野郎と紙一重の、あまりにファンタスティックかつ、容易く手の届かぬ理想を体現するアイコン的存在という認識を、平成ライダー枠で再び思い出せたきっかけが、振り返ると電王の良太郎だった気がする。



『キバ』の項での疑問其の一。

〈音也は本作における大文字のファンガイアの王からその父権の象徴である妻(真夜)と鎧(闇のキバ)を奪い取って(開放して)しまう。〉 P322

権力を誇示する男Aから、彼の自慢の所有物たる女とお宝を横取りする男Bの図は、雄の本性というだけのことなのでは。
本能に拠るところ大きい横取り行為を開放と持ち上げているだけなのでは。

同じく疑問其の二。

〈「名誉男性」を志向せざるを得ない女性たち(麻生ゆり、恵の母娘)〉p324

との規定もピンと来なかった。
私が知る限りの彼女らには、誰も頼れない、自分で何とかしなければ、というような張り詰めた勝気さは感じても、それを大げさに名誉男性志向(とはフェミ用語で、男尊女卑的思考の女性、を指すと理解するが)とまでこき下ろすほどとは思えなかった。
むしろその冷たく突き放す表現に「隠れ男尊女卑」傾向がありはしないだろうか。


〈ディケイド=大ショッカーの介入の結果、融合が進んだ9つの世界は崩壊が進行し、最終的には異なる世界の仮面ライダー同士が生存権をかけて殺し合う「ライダー大戦」が勃発する。〉p338

ライダーがおのれの生存権欲しさに(ようは生命惜しさに)、目的を同じくする同志たち(同じ仮面ライダーを名乗る者たち)と殺し合いを展開すること自体、仮面ライダーであることの前提も必然性も欠いた、サイテーなクズの集まりと宣伝するようなものだと思うが、倫理なき「卑小なオレ正義」同士の衝突の、どこに人々を守る役目が本来であるはずのヒーローたる資格があるのか、見た目だけヒーロー然とした格好をし、それらしきポーズを取り、無敵の強さを見せつけようとも、もはやそれはヒーローの悲しき紛い物でしかなくなる。
もし本物であれば、一触即発の事態を回避する方向への努力を、各自が全力で取り組むはずで、だいたい誰かの犠牲の上に自分の命を長らえたいとする、チンケな自己中ライダーが一人でもいる時点で、もうそれライダーじゃないし!と猛烈に反発心を呼び起こす異常事態ではなかろうか。倫理意識の甚だしい欠如がもたらしたカオスにヒーローを置けば、必然的にそれはハリボテな中身(見かけを裏切るクズな実態)を晒す情けなさがウリの、笑えない喜劇にならざるをえない。
ライダー大戦を不可避のゲームと力説するのも、著者のユニークな解釈(これ自体は掛け値なく面白く読めるのだが)の正当性補強のためとしか映らず全く同意できず。




『W』の項での疑問。

仮面ライダーWは、自らが暴力の主体であることを決して引き受けない。〉P350

引き受ける、とは、では具体的にいかなる描写の状態や言動を指すのか、もう少し補足説明が欲しいところ。

〈ガイアメモリ=自分の外側にある商品を消費し、アイデンティティを確認することは、本作の世界では「異常」で正されなければいけないことなのだ。〉P同

商品消費とアイデンティティ確認のみで済むなら、その理屈も尤もと賛同も集まろうが、そこに他の一般市民を巻き込む犯罪が絡むからこそ、ダブルも出張ってくるんではないのか。
(正直ダブルは終盤を除き、適当に流し見してた作品ゆえ、例外があったかは定かではないが、ただ個人のささやかな快楽程度を、はた迷惑な風紀委員よろしく厳重に取り締まるような、どうしようもないセコいレベルの話は、いくら何でもさすがになかった気がする)

で、先のに続くのが

〈このひとつの、ほとんど管理社会的と言ってもいい「ゆるぎない正義の」記述を可能にしているのはそこが「風都」というひとつの価値観に規定されるテーマパークの内部だからだ。〉P同

自らの欲望実現のため無関係の他者を犠牲にするような厄介なエゴによる被害が拡大せぬ内に、何とか止めようとするダブルの行為が、「自己利益を前提としたオレ正義」であるかのような批判に、本当に該当するだろうか。逆に管理ゼロの野放し状態で、まともな社会が機能するとは思えないのだが。
「正義は存在しない」と断言し、「管理社会的」という表現を批判的に使うのなら、そもそもこの管理の行き届いた日本の法治システムを否定しにかからないのは、腑に落ちない理屈のようにも感じるし。
作品未見で上記だけを読む限りでは、風都でまかり通る社会ルールが、よほど特異で異様なものと受け取る読者がいても不思議はなさそうだ。(先日いくつか検索した読書感想のことごとくが、平成ライダー見たことない派が大半だったのを、ふと思い出したり)







とりあえず、ここまで。
たぶん、もう少しだけ続く予定。