ヒーローと倫理(4)


クウガからW(ダブル)までの平成仮面ライダーを論じた『リトル・ピープルの時代』第二章への疑問点を箇条書き、のさらなる続き。


グローバル/ネットワーク化とは、世界をひとつにつなげ、P359

ここまでは意味が重複するせいで少々クドい言い回しながらも、一応さらっと読めるんだが

〈外部〉を喪わせる力だ P同

この、外部なる言葉の指し示すのが具体的には何なのかがはっきりしない。

内部と外部を対比させ、前者(内部)を「私達の世界の内部から発生したヒーロー」などと使っている点から、同質性を拠り所としたグルーブ領域、だと仮定すれば、後者(外部)は自動的に(自分の理解の及ばない)異質なものがひしめくグループ領域、となるが、この理解で合っているかも覚束ない。

にしても

世界から本当に外部が消滅したとき P同

との表現には少なからず驚いてしまうが、外部が消滅するとは、私イコール世界とか宇宙とか(・・・)になる感覚であろうか。
だがそれでは悟りを得て解脱する釈迦レベルでないと無理な話になってしまう。

〈外部〉=〈ここはでない、どこか〉P同

この不思議なイコールの関係性も、第二章の最後辺りで急に出てきた印象で面食らったが、「外部」を一種の現実離れしたお花畑ドリーム(ここではないどこか)に定義しているなら、もはや理解はお手上げとなる。

独自の用語使いが(しかもキーワード的に使われてたりするのが)多いのと、前後に説明なくいきなりポンと出てくるのとで(もし第一章で微に入り細に入り説明されてるなら、未読でスマンと言うしかないのだが)、肝心の主張したい要点がぼやけて(用語の意味づけが明瞭でないせいで)伝わりづらいというか、何となく理解した気になってるだけの(通り一遍の無難な表層的理解に留まる)心許ない読み手は少なくないんじゃないかと思う。

ちなみに、外部が消滅する(つまりは全てが私という内部になる、ということか)、のでなくて、外部と内部を、たとえるなら客観と主観の観点を、必要に応じ自在に切り替えて行き来するような、「往還」の発想の方が、「変身」の概念を取り扱うのに、よりフィットする(説明に都合が良い)んではなかろうか。
自分と自分以外を分かつ境界線がそう簡単に完全に無くなるとは、外部(私以外)が消滅し全てが内部(私)になるとは、ちょっと考えにくいゆえに。


再びディケイドの項。

キャラクター的複数性をコントロールしそのアイデンティティを自由に記述し、自ら生み出す暴力=グローバル/ネットワーク化の反作用を自ら排除し得るシステムそれ自体としてのヒーロー P342

それがディケイドだと定義するのだが、
自ら生み出し自ら排除し、って、そういうのを一人芝居とかマッチポンプとかいうんじゃなかったか。
なんと、本当に笑えない喜劇だったとは。

さらに定義は以下のように続く。

世界の破壊者/守護者である仮面ライダーディケイドとは、いわば現代における「壁」=システム=貨幣と情報のネットワークそのものだ。P342

そして(ゲーム)システムとプレイヤーを再び接続したディケイドは、代わりに物語を失った→放棄した、と読み替える。「あえて」放棄したとは。まさしくモノは言いよう。
世界の破壊者守護者だのシステムそのものだの、鼻持ちならない神気取りの一方で、主人公は(精神年齢だけでなく実年齢も)そこらの思春期のめんどくさい子どもと何ら変わりなく、でそれが、繰り返すが唯一絶対神を気取り、恐怖の独裁を強行するわけだ。どっちかというと気まぐれに近い動機程度で。
大げさに持ち上げるほど馬鹿馬鹿しさが募ってくる。
いったい何が悲しゅうて、なりきりお山の大将のガキに付き合う必要があるのか、虚しい脱力感に襲われる。

しかも著者は、主人公が過去ライダーを、単なるお供のペットや便利な道具として半ば強引に(さすが独裁者だけにやりたい放題も許されるらしく)「取り込む(別名:変身する)」のを、相手側のライダーに身体を「明け渡す」と表現している。
明け渡す、というのなら、自我はその時ディケイドの主人公でなく、本来の過去ライダーの主人公になり変わらなくては、理屈に合わないはずである。
いくら過去ライダーに変身しようと、自我はディケイドのままなのに、明け渡す、という表現は如何なものか。
ちなみに電王の良太郎の「変身」には、著者は逆に「他者を(イマジンなるモンスターを)インストールする」と表現しているのが正直解せなかった。
どちらの変身が「身体を他者に明け渡す」なる表現に合致しているか、両作品を観た者であれば、問うまでもないことと思うのだが。

というか、この手の注意深く読まないと何気にスルーしそうな細かい箇所に、恣意的とも感じる微妙な表現の違和感が、結構な数で散りばめられているのが、何というか、著者の用意する結論に強引に誘導されているようで、それが読み進むのに難儀した大きな理由の一つではあった。


さらに思い出したので追加。

仮面ライダー555』においては実質的に物語は進行せず、自己目的化したコミュニケーションの連鎖が物語を偽装しているに過ぎない。P292

とあるが、「物語の偽装」は555に限らず、特撮ヒーローものの典型パターンではなかろうか。
物語といえる物語など、数える程度の例外しかないのではないか。
何しろジャンル的要請からバトルアクションに視聴者の興味が集中するのは避けがたくあり、そこへ物語という余分をつけて膨らませると、たいていは(むろん脚本自体の出来の問題は大きいが)冗長に流れて失敗する憂き目にあうのは、過去の平成ライダー映画などで嫌というほど証明済みだから。
それでも脚本担当の井上敏樹などは「物語」へのこだわりが捨てがたくあって、その執念が最後にキバに結実したのかもしれない。(個人的にはわざとらしいハイテンションの上滑り感から敬遠した作品であったが、熱の入った著者の解説のおかげで改めて興味を惹かれたので、そのうちきちんと観直してみようかと思っている)