3.11を語る辺見庸の言葉に共感

シリーズ・私にとっての”3・11”「瓦礫の中から言葉を」作家・辺見庸、という
久々に観てみたNHKEテレ早朝番組(去年4月のアンコール放映を録画で後から)中で
とりわけ感銘を受けた箇所を、某掲示板にて紹介された書き起こしから、ありがたく拝借コピペ。

あの光景とは、尺度を変えて考えてみれば、宇宙的な規模で考えてみるとしたら、喩えに語弊があるかもしれないけれど、否定を恐れずに言うとすれば、宇宙の一瞬のクシャミのようなことかもしれない。
かつて地震というものは最大限でもこの程度でしかなかった、したがって、それ以上は想定しないで済むというのは、データ主義からきた不遜な行為ではないかと思うのです。
それは著しく反省しなければならない。大自然はそんなものではない。
宇宙の一瞬のクシャミが人類社会の破滅に繋がるんだということをわれわれは考えなくてはいかん。
そうしたら、核というものを用いる発電というものが、本当に根源的に安全かどうか、それは宇宙の摂理というものに照らせばどうなのか、ということをもっと謙虚に考えるきっかけになるのではないか、という風に私は思うのです。
私たちの命というものが何て短いんだろう、何て予定されてないんだろうということに、打ちのめされたわけです。
そして、その小さな命というものが、そしてかくも短い命というものが、簡単にモノ化されていくということと、そして、宇宙の悠久の命というものが、実は重なり合っている。
短い人間の命というものと宇宙の悠久の歴史というものが、命というものが、交差し重なり合い、肌と肌を合わせている。
その恐怖と恍惚を、法悦というものと、畏怖の面の両方を、今度、私は自覚したわけです。


短い人間の生命と宇宙の悠久の歴史が、交差し重なりあう、その恐怖と恍惚。法悦と畏怖。という部分は先日の、
南方熊楠からウルトラマンを語った記事で一番強調したかった点でもあり、偶然とはいえ相通じる感覚を、それも311の震災後に感じた人がいたという心強さは、自分の中でちょっと特別なものがあった。
加えて、やはり「個と全体の往還」なのかとの確信を、また一歩深めることにもなった。

次回記事(『境界線を越える思想』)の後半でも辺見庸の言葉に触れているので良かったら。

再放映もあり。


1月30日(月)
Eテレ3 午後2時00分〜3時00分

2月4日(土)
Eテレ 午後1時00分〜2時00分