境界線を越える思想


シリーズ・日本人は何を考えてきたのか/第4回、を視聴。

番組の最後のまとめに、非戦と平等を掲げて社会主義の理想を追求した幸徳秋水堺利彦は、「国を越える思想」の必要を主張したのだとゲストの識者は指摘した。

自国が利益を得るためなら他国が不利益を被るのも構わない(あるいは仕方がない)とする考え方は、要するに自分たち(たとえば味方とか仲間とか)と自分たち以外(たとえば敵とか部外者とか)の間に明確な境界線を引くことであり、
それでは互いの「オレ正義」を旗印に、動物並みの殺伐たる弱肉強食の争いが飽かず繰り返されるも道理で、
この世を形成する不特定多数の他者と我との、複雑かつ緻密な関係連鎖への意識を前提とする真の公共性は、いつまで経っても人の心に根づかないだろう。

また彼らが目指した社会主義、というのを、その字面から我々日本人の貧弱な固定観念では、とかくソ連共産主義北朝鮮の体制等をイメージしがちだが、そうではなく、ごく簡潔に言い換えるなら、公共性を中心に考える、公的なものを重視する、個人主義の対局にあるものの考え方であるとの話も出た。

足元のささやかな暮らしから世界情勢の大局まで、人の精神を支える骨太のしっかりした核心が背骨が、一本の線となり貫く、途切れず繋がっている、というのでなければ、思想だの哲学だの、そもそも無用の長物、暇人の退屈しのぎの玩具に成り下がるだろう。


先の辺見庸カミュの『ペスト』を手がかりに、破綻に瀕した状況下での「人が人にひたすら誠実であること」の貴重を、大事を語っていたが、他者に対する誠実を可能にするのも人心のあり方次第であり、さっぱり大事とも貴重とも思わない者に無理やり号令一下従わせることはできない。

(他者に誠実であるためには)破壊された外部に対する内部をこしらえなければいけない、新しい内部を自分の手で深く掘り進むしかない、との結論に達するのは、ゆえに必然とも思う。

どうあっても最終的に人が人らしくあるためには「精神的支柱」が必要不可欠だということ。
腑に落ちる内面を自分にこしらえる、それが「希望」ではないか、と結ぶ言葉を、ゆっくり噛み締める。

いたずらに虚しい物理的な復興ということだけではない。
あるいはどこか虚しい集団的な鼓舞を語るのではない。
日本人の精神という風な言葉だけを振り回すのではない。
もっと私(わたくし)として、私という個的な実存、そこに見合う、腑に落ちる内面というものを自分にこしらえる。
ということは、私の言葉、私はあまり、言わないのですけれども、それが「希望」ではないか、というふうに僕は思っているわけであります。/NHKEテレ『瓦礫の中から言葉を』より