それが俺の一直線!/仮面ライダーフォーゼ

第21話『進・路・誤・導』
第22話『馬・脚・一・蹴』

脚本:中島かずき、監督:坂本浩一

先週(第21話)のトモ子の台詞「仮面ライダーは人知れず悪と戦う正義のヒーローなんだから!」から更に進んで、今週は弦太朗に「学園と地球の自由と平和を守る仮面ライダー部だ!」と宣言させることで、初代の精神を受け継ぐ、四十周年を冠に掲げる本作の心意気が提示された今回の前後編。

前編冒頭のフリである「火災報知機の(誰の仕業か不明な)破損」が、後編で真相解明のオチとして機能する、ミスリードも含む前後の一貫性が確保された作りには、前々作「W」(ダブル)での謎解き要素を効果的に配したワンエピ(二話セット)完結形式の徹底と通じるものがある。
とことん客を喜ばせようとするエンタメ精神の上に、一本筋の通った硬派なテーマが息づく、というような理想のカタチを中島脚本は打ち出したいのだろう。
表面上では軽快かつコミカルなテンポを借りながら、たとえば今回を例に取るなら、先入観による固定観念が如何にして形成され、人をして真実とは裏腹である虚偽を、まるで真実であるかのように思い込ませる確信に至らせるか、その過程をつぶさに追いナマの人間心理に迫ろうとする、かつての(仮面ライダーXなどで見せた)長坂秀佳脚本を彷彿とさせる試み(挑戦)が為されていると思う。

前後編通してのハイライトは、おそらく新任教師の宇津木と弦太朗との以下のやり取りではなかったか。

「あなたの言ったとおり、私はずっと迷っていた(キックボクサーの道と教師の道とのどちらを選択するかで)」
新担任の宇津木遥(こと長澤奈央 ←眼福のひととき)による本音の告白に、

「でも。迷ってんのはギリギリのところで踏ん張ってる証拠だ」と明るく言い放つ弦太朗。

今度は自らに言及し、
「俺はやり続ける。如月弦太朗だけど仮面ライダーフォーゼ。友達は作るけど怪物は倒す。やり続けていればいつか二つの道はひとつになる。それがオレの一直線!」

そう堂々宣言するシーンは、中島脚本の「恍惚と不安」も同時に炙り出す。

本作での戦闘アイディアの先駆たる前々作W(ダブル)でのルール、怪物(=ドーパント)は倒しても(たとえ悪事に手を染める者であれ)人間に危害を加えない独自の戦闘システムを、「自らが暴力の主体であることを引き受けない」(ようするに「体のいい誤魔化し」にほかならない)と宇野常寛に批判されたことへの反発が、あるいは具体的台詞に反映されたのかと想像してみたり。

次回は偶然に(それとも満を持してか)Wの「二人で一人」の片割れたる長谷川脚本、ということで、外野はここぞとワクワクする新機軸、新展開に出会えることを、それとなく期待してしまう。
一発派手に目の覚めるような、なにか面白いことやらかしてくれないかと。新顔の監督起用にも同様に。

ヴァルゴ・ゾディアーツの形態を「羽つき」と表現する弦太朗に、即座にガンダムの「スカートつき」を連想した自分がわけわからん。とはいえ深くは知らぬ外野の身でも咄嗟に思い浮かぶのは、よほどガンダムが後々まで印象に残るオリジナル用語の宝庫だった証左でもあるだろう。

弦太朗が新しく担任となった宇津木先生を、彼女の下の名前で遥(はるか)先生と呼ぶのを聞き、そういえば前任の園田先生を、園ちゃんとアイドル並みの愛称で呼んでたなと思い出し、そうか硬派を気取る軟派なキャラなのかと一つ気づいたんだったが、同年齢より年上好みな傾向もあるんだろうかとふと。

ただ映像面には大いに不満が。アクションシーンでの画面の過剰なブレ具合は、勢いを加味する意図だとは察するが、目にやたらチラチラ小賢しく煩いだけで、有効な手段となり得ていない。
却って何が起こっているか見えづらいストレスの分を差し引けば、効果はマイナスになる気がする。
アクションならTVドラマ『ラッキーセブン』第1話の方が(←とりあえず野次馬興味で観てみた)、遥かにスリリングな画面作りの工夫が為されていた。
特撮heroの看板はアクションだろうに、通常のTVドラマの完成度に及ばないのは如何なものか。
ブレブレ画面は(たとえそうでなくとも)技術の未熟をカバーする手抜き手段にしか見えないしで、あえて用いる利点に乏しいと思うんだが。改善を求めたい。

最近とみにオカルト娘トモ子(野座間友子)の可愛らしさが引き出されているように感じるのは気のせいか。
ユウキにお試しレッスンの声をかけたジムのおっさんに、次は私の番とやる気満々待ち構えていたのを、あっさりスルーの憂き目にあい、涙ぐむ顔アップの、あのトホホな表情には負けた。
妙にちまちました仕草の小動物ぽさにどうしても目がいってしまう。
或いはライダー部の中で一番キャラが作りこまれていると言えるかも。



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