カーネーションとオーズに見る「悪人正機」


カーネーションの本日放映分(146/あなたの愛は生きています)での糸子の台詞、
(与うるは受くるより幸いなり、という聖書からの引用を指して)
「そうそう、あげんのはもらうより、ずっと得や」
「こんなもん、人一倍欲深い人間やないと、言わんで」
「欲深いからこそ、さんざん痛い目にあった末に、(この境地に)辿り着くんやないか」

さらりと言ってのけつつ、一方では、
注文したうなぎはまだか、お腹空いたー!と欲望だの煩悩だの全開で、
不平たらたら愚痴ってるのを見聞きして、
瞬時に『仮面ライダーオーズ』に出てくるグリードなる異形の怪物、アンクを連想したことだ。

アンクは、人工的かつ偶発的に生み出された、所詮は「モノ」でしかない、
自分を含めたグリードという不完全な存在を激しく嫌悪し、人間がもつ生命への憧れを募らせ、
その獲得のために、あらゆる存在や事象を計算高く利用する(利用価値がなくなれば
あっさり裏切る)、「自分さえ良ければ」なエゴに満ち満ちた奴である。

だが(オーズに変身する主人公の)映司や比奈との交流を通じて、次第に彼の精神にも変化が訪れ、
最後は「ただのモノでしかなかったグリードが死ぬところまでこられた、
お前(映司に対して)を選んだのは得だった」と言って、
映司を助ける(事実上の)犠牲精神を発揮して果てる。

その時のアンクの、「死ぬ」ことによって「生命」の実感を得られたことの満足、
自身の選択を「得だった」と自信をもって断言したこと、
これらが上述の糸子の台詞に重なって聞こえたんだった。

一見すると他者の犠牲になったようでも、実は本人も「得をした」感覚がある
(だから「無理して善人になろうとして」ええカッコしいやってるわけでなく、本当に心から満足している)、という一点において、
両作が根本の部分において、共通するテーマを取り扱っていることが指摘できるかと思う。

カーネーション』脚本の渡辺あやといい、
『オーズ』脚本の小林靖子(現在はゴーバスターズのメイン脚本担当)といい、
深いところまで達した(達観の域すら感じる)ハイレベルの内容を、
エンタメに惜しみなく、そして大袈裟でないさり気なさで、よくも大胆に投じてくるものと、
ただただ感心するのみ。

ことに、表向きは子ども(幼児)向けなニチアサ(SHT枠の)特撮で、
よくぞ「しでかしてくれた」と、今更ながら小林脚本のオーズの素晴らしさに感じ入るばかりだ。
個人的には(あの終盤の展開によって)オーズは
歴代仮面ライダー作品中ピカイチ!の内容的深みと思っている。

アンクとは、いわゆる悪人正機(の具体例、ある意味一つのモデルケース)なんだよね。
本人の「得」と犠牲的行為がイコールで結ばれる、というのは、まず己が悪人たる自覚ありき、なわけで。
それを見据えた上で、善なる(そう簡単には届きそうにない)高みに、
それでも「不可避的に」手を伸ばさずにはいられない、
ロクデナシな自己を痛感しつつ、一歩でも「光に」近づこうとして。
そこに生命の尊さはある、本来の、強烈にまぶしい輝きを獲得する、たぶん、そういうことなんじゃないかと思うのだ。
悪の自覚あればこそ、善は可能なんだと。
(そしてその覚悟を深く、自らに問うことの必要性を)





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