守る、ということ/仮面ライダーフォーゼ・補足

今回(第30話『先・輩・無・用』)のフォーゼのキーワードだった「守る」という行為は、
特撮ヒーローものとは切っても切り離せない、ジャンルの理念を支える重要な要素の1つである現状をまず踏まえなくては、
長谷川脚本の、ひいては中島メイン脚本と塚田Pのこだわり及び狙いは、見えにくいのかなと思う。
のでちょっとだけお節介で前回記事の補足をしてみる。

「守る」を意識的にキーワード化して取り上げることは、半ば必然的に、特撮ヒーロージャンルにおける男性原理の保守性に触れることでもあるわけで、それをする意味、目的がそこには必ず見出されるはずである、というのも、

何の意味も目的もなく、行き当たりばったりに浮かんだアイディア程度の動機で、こんな無駄にリスクを背負うかもしれない危ない橋は渡らない(ヒットを度外視できる立場ならともかく)は自明の理だろうから。

フォーゼのユニークな(制作する上で作り手が最も意識したに違いない)特徴の1つが、仮面ライダー40周年の記念作品(一応な)として、そのコンセプトに原点回帰ならぬ原点確認が盛り込まれていることだと思うのだが、

初代の「人間の自由と平和を守る」に始まって、
たとえば「みんなの笑顔を守りたい」のクウガ五代も「真理は俺が守る!」の555草加
正統派もダーク派も等しく必須の合言葉化してる、特撮ヒーローもののお約束化してる、

これはフォーゼに関してはアンチの立場をとる者であれ、否定しようのないことで、
ライダーは言うに及ばず、本ジャンル全体に流れる大きな要素であり、かつ重要テーマ化してる(してきた)歴史がある。

そう、ヒーロー(強き)側からの、ある意味一方的な(弱き側への)「守る」の連呼を、
その是非をすっ飛ばし、おおむね好意的に描いてきたのであり、
少なくとも視聴者には「好ましい」印象を与え続けてきたのが、本ジャンルだった。

愛する者を守る宣言が、同時に、相手が自分より劣る宣告とも受け取られる場合があるのだとして、
守る方と守られる方との心情のすれ違いに着目し、
守られる側の立つ瀬のなさ、屈折した感情を拾い上げた脚本は、
少なくとも個人的には今まであまり類似の視点を見たことがない気がして、そこに一歩踏み込んだ目新しさを感じた。

むろん、さらに従来の保守性を乗り越えて踏み込んでくれれば、
男女の性差に関係なく、やたらな守る守るの連呼は、知らぬうち相手の自尊心を傷つけていることもある、まできっちりと描いていれば(つまり安易に「守る」を連呼する「勇ましさ」自体へ疑問符を投げかけるまで突っ込んでいれば)たしかに文句なしではあったが、

特撮ヒーローものの現状ではあれが限界という、シビアな見極めも分からんではない。そう了解した。
従来路線からあまり大胆に外しすぎて視聴者の反発招いては元も子もない、との思惑が、
女子にだけ思いやりや気遣いを要求するような「従来的な保守性」を残したんだろうなと。

ここで男女の精神的平等性を言い出したら、それこそ今回以上に疑問符のつく表現や台詞に事欠かないのが本ジャンルでもあったわけで。
急に性差に基づく不平等な扱いの是正を要求するのは酷だろう、と今は慮っている。

「守る」に限らず、フォーゼではその意気込みが成功しているかどうかは別として
特撮ヒーローものの(今まで当然扱いで不問に付されてきた)基本フォーマットの洗い出しみたいなことを試みている、そういう視点がある、ということの重要性を、見落としてはならないのだろう。
たぶんフォーゼで押さえておくべき最も大事なポイントは、ここじゃないかと思っている。






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