スーツ(アクター)なら誰でもいいわけじゃない

断片的なつぶやきでは言葉足らずに思えてきたので、あらためて思考の整理を兼ねてメモ。

GW中に放送された特撮三昧(NHKFM)の録音を聴いていて、ゲストの鈴木美潮による「どちらかといえば顔出しよりスーツが好き」発言を、最初はご同類と単純に嬉しがっていたが、

ご当地ヒーローがスタジオに飛び入り出演した際の、メンが好きだから一気にテンション上がった、などの発言と併せ、よくよく意味を吟味すると「スーツなら誰でもいい」(中の人にさほどのこだわりはない)人特有の感覚なのだと気づいた。
(でなければ熱烈ファンでもないご当地ヒーローに、「スーツだから」という理由だけで、安易にテンションなんぞ上がるわけがないと思う)

でそれはたとえばドラマの登場人物を演じた俳優に、「他の誰とも取り替えの効かない」格別の愛着が湧くのと同じような感覚をスーツにも抱く自分とは、同じどころか真逆の捉え方だったりする。

この根本的な捉え方の違いは、おそらくスーツを(スーツアクターは問わない)記号と見るか、(スーツアクターの個性&演技とイコールの)独立したキャラと見るか、の違いだろう。
がそんなにSAの演技が誰でもいい的な軽視されていいもんじゃないぞと思う私は、所詮は思い入れ度の違いゆえ仕方なしとの醒めた認識とは別に、一見スーツ愛を語るようでその実、顔出し(俳優)は当然のように個人扱いするのに、スーツは記号扱いして構わないとする落差に、どうも引っかかりを覚えてしまう。

さらに第三者目線からは、どちらも同じ「顔出しよりスーツ派」だと一括りにされそうなのも納得がいかない。
真逆といっていい違いを一括りにされて厄介なのは、スーツ=記号(中の人問わず)意識が、もはや疑問視する以前の「常識」としてまかり通ることで、いよいよSAは取り替え可能みたいに勘違い(←声を大にしてそう主張する)されるのは辛いものがある。
スーツアクターは顔出し同様、アクション以前に演者なのに。
なぜにそのような侮辱的な扱いに甘んじなければならないのか。
その俳優=SAが魂込めて演じたキャラクターが軽々しく取り替え可能なわけない、と言いたい気持ちが強くある。

私の中ではとりわけ思い入れあるヒーローの変身後(スーツ)は、たとえどんなに巧くとも、当時のSA以外はみな「別人」という認識しかない。またスーツでありさえすればとりあえず喜ぶ、なんてこともない。
それではまるで相手構わず見境なく発情するのと何も変わらない。また誰でもいい扱いでは相手にも却って失礼だし、暗にこのくらいの扱いで構わんとの高飛車な意識が透けて見えて嫌な気持ちになる。

付け加えると、SAだけをスーツとは別個の個人と意識を切り替えて(あるいは地続きで、ともいえるが)好きになる、というのが私にはないのだが、「顔出しよりスーツ派」の認識では暗黙の了解的に考えられているらしく、顔出しのSAとなると露骨に興味が減退するこの感覚を、本当のスーツ好きじゃないかのように誤解/曲解されるのも居たたまれないものがある。

何と説明したらいいのか、番組中のその変身後ヒーロー(スーツ)が好きだという感覚と、その役を離れた役者まで好きだという感覚は、似て非なるものと思うのだが、その違いに関しても明確に理解している人は、案外少ないのではないかと思っている。

以前のブログでだったか、過去に一度、これは二次元愛と基本的に同じなのかも、とどこかで書いた覚えがあるが、愛着が作品内で完結している、つまり作品内キャラに特化した愛着なので、作品を離れては成立し得ないのだろう、と自己分析して思う。

余談。これも以前に書いたことだが、特撮ヒーローものに興味を持ったきっかけは、動画サイトで岡元次郎RXの、まるでアニメのキャシャーンOPを彷彿とさせるような空中での回転技を偶然目にしたことに始まる。
それは前述の鈴木美潮が「変身後の初代ライダーに一目惚れ」して「ライダーショーに夢中になった」感覚とは似ているようでも根本のところで相容れない、岡元次郎演じるライダー(RX)に魅せられたのであって、ライダー(RX)という記号だけでは別物になってしまうほど、両者は合体した一個の人格として作品の中で生きていて、極論すればその両者の合体が解かれれば、そのキャラは何処にも(特撮ショー含め)いなくなる、似た風貌の人がいるだけで本人はいない、そんな感覚に近い。
(まるで興味のない向きには区分けが細かすぎると指摘されそうだが、なにせこのこだわりだけは特撮ヒーロー愛の原点なので安易に譲れないのである)

とりわけ我が愛する三大スーツアクター、岡元次郎(BLACK&RX)や大藤直樹(リュウレンジャー)や柴原孝典(シャイダー)となると、それこそ彼らが演じたスーツ以外は「あり得ない」と言いたくなる強烈な思い入れがあり、それを記号だから一緒だろ的に適当に扱われるのは非常に心外、というのが偽らざる本音としてある。






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