カフカのネガティブは連帯しない/100分で名著

NHKEテレの録画にて(だいたいオンタイム視聴の方が稀かも)。
開始当初から野次馬興味で何となく観ているこの番組、司会が伊集院光に変わったので
題材も文学系にシフトしたのか、と思いきや
次はパスカルのパンセだそうで、哲学系路線を止めたわけでもないらしい。
次の講師は鹿島茂
ヴィクトリア女王他を特集的に扱った回のなんとか歴史館以来かもTV出演を目にするの。

タイトルにも書いたとおりカフカの場合のネガティブは、個々のバラけた「共有」は許しても
集団がまとまる手段としての「連帯」は頑として拒むだろう。

「自分の思考とそっくり同じわけがない」他者との快適な距離を承知していたから。
どんなに考えが似通っているようでも「この自分ではない」他者に
下手な幻想を抱くのは無益だとする諦観が前提にあったから。
他者への過剰な期待も依存もしない、同時に自分もされたくない、と考えていた人。おそらくは。

自分のエゴの正当性を、社会や賛同者目当てで主張するような下心のない
ドライに徹したネガティブがカフカの良さだと思う。

そのネガティブの単位は常に「ひとり」であって、そこに「仲間」などという場違いな発想は
最初からありえないしそぐわない。

ゆえに特別ゲスト(自称カフカ研究家だそうだ)による、
カフカを「落ち込んでる時に共感してくれて一緒に泣いてくれる友だち」になぞらえた発言に、
さらりと異を唱えたゲスト講師(川島隆)の
「寄り添ってはくれても一緒には泣いてくれない人だと思う、感情移入は誘ってもどこか読者を突き放している、
あくまで乾いた感触」というのには、「共感」を覚えたし「救われ」もした。

思い入れの激しさに一定の理解は示せても、あんな情緒過多な解釈をカフカ本人がもし知れば、
まんまストレートに面には出さずとも(万事控え目かつ礼儀正しい人だったらしい)
相当に辟易しそうではある。

ネガティブ(感情や意見)を誰彼となく伝染させる「布教活動」により、
その正当性強化を画策するのとは無縁なカフカだからこそ、
彼のネガティブには、彼自身思いもよらなかったであろう
苦しむ他者を救うほどの価値がある、ということなのではないか。

カフカのネガティブは常に自身の孤独とともにある。誰より気を許せる親しき友として。
それが沈黙と諦観を選ぶ慎ましき態度に結びついたのではと思う。







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