あらためて綾野剛への好感/BSコンシェルジュ


名を呼ばれて客席袖から壇上目指し急ぎ足で近づく時の、舞台そして客席へ、思い込めて丁寧にお辞儀する様子に
ああ綾野剛だなと、先だってスタジオパークでの語り&振る舞いを思い出し、信頼を深めたことだ。

この人には自分が自分がと前へ出たがる「浅ましさ」がまったく感じられない。
今回も特集番組のプロモーション映像を良かったと褒められて自然「それは監督のチカラです」とさらっとかわす。
自分こそがとの傲慢とは無縁の「おのれの分を知る、というより低く見積もるくらいの」クレバーな態度が、そこはかとなくいい。

映像を通しての俳優への賞賛は、現場の裏方の力なくしてありえない実情を堅実に見ている
(裏方の力を無視し、ひたすら俺サイコー!と自画自賛する傲慢な麻薬的、即物的、一時的快楽を断固退ける意思を感じる)。

「その」役に採用された(イメージ的に期待される)おのれの役割を以心伝心「わかりました」と受け止めるセンスとプロ意識に加えて、
「さてどうなりますか」と自らの到達点を観察者として楽しむ好奇心のさまが、濁りなく真摯で頼もしい。

NHKBSPイギリス特集のイメージキャラクターとして採用された自らの立場を、
過大にも過小にも見誤らず、なんだこれはと番組に興味を示すきっかけになれば本望です、とさらりと発言する。

他者に支えられて自分がある、そう理解している人の強さは揺るがない。
他者の(未知なるものを含めて)能力を尊重する一貫した敬虔な態度が、どれほど自らに幸運をもたらすか、
偶然であれそれが如何に凄いことか。
思いを馳せると、なんと眩しき光りに包まれた境地かと、戦慄さえ覚える風情がある。

自らのネガティブな部分を無理くり正当化など端からしない、視点を変えてポジに転化するか、叶わずば興味をなくす、
それはとても大事な事だ、生きていく上で。自らの心をむやみに汚さぬ上で。

綾野剛のように生きたい、生きようと自覚したらとても、
批判する自分が「いかに賢いか」を吹聴する揚げ足取りの中傷なんぞ出来ないだろう、恥ずかしくて。
ご立派な(胡散臭いともいう)肩書きへの依存含め、身の程知らずは怖いものである。

綾野剛のごとくイギリス特集のイメージ映像のスポットVerを流され、それを熱っぽく褒められてもクールに一言
現場の(裏方の)力だとさらっと言い放つ俳優は(いや一般人も含め)貴重だろう。
自分に過大な価値を置く分、他者への思いやり、想像力、共感力は、ないがしろにされる、軽視される、
そこを綾野剛は「映像作品はチーム力、我一人の功績にあらず」と再三にわたり主張していた。

信じるに値するとはこのような人のことをいう。これみよがしな自分アピールなどせずとも
自然魅力を発散している、それが本当の人間力だと思ったことだ。

綾野剛の発言や振る舞いを見ているだけで、心が洗われる心地がする。
でそれは我々一人一人が真摯に学ぶべき、人としての在り方のように思われる。
驕り高ぶるでも卑屈に構えるでもなく、切実に茶化さず語る、語ろうとする生き方の美しさよ。

顔や外見はむしろ二の次で、人の振る舞いやそれを裏打ちする心意気に惚れることがある。
綾野剛はそういう数少ない奇跡の出会いの一つのように感じている。
この世で与えられた役割を静かに「了解」し、自分が出せる精一杯の力で演じる。
それは気づくか気づかないかの差。だがそれこそ自分の人生をより良く生きる決定的境目になる気がする。

共感できないネガティブに構っていられるほどの時間が、どれほどあるというのか、
長らえてもたかが100年前後の人生なら、少しでも楽しめる対象に費やしたい、
無駄な時を浪費するほどの猶予は、誰であれ与えられてはいないのだ。
「生」の時間は有限なのだから。







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