『神々と男たち』をきっかけに考えたこととか

『神々と男たち』という映画を観ての直接の感想というより
内容に触発されて考えたことなど(まとまりのない雑感)。

イスラム教圏アルジェリアでの内戦激化による暴力の余波は、フランス人修道士たちにも
及ぶところとなった。1996年に実際に起きた事件なんだそうだ。
過激派武装勢力がついに修道院内に突入、彼らを雪深い山中まで強制連行し殺害するに至った。

本国からの帰国命令にさんざん心が揺れ動いた修道士たち。
それでも最終的には皆そろって、骨を埋める決意で赴いたアルジェの地に
引き続き留まることを選択する。
生命の危険より宗教に一身を捧げる信念を優先する。

今この地を離れては自分の一生が無意味になってしまう、
生きている意味を、存在意義を、見失ってしまう。
目前に迫りくる死や暴力より、むしろそちらの恐怖のほうが大きかった、
コツコツと日々を地道に少しでも宗教的理想に近づくべく生きた人生が
最後の最後で無意味に帰してしまうことを、何より怖れた。
この世で授かったたった一つの生命より。

単に「人」であることと、「人として」あることは
語感は似てはいても意味合いは全く異なる。
修道士たちは彼らの宗教的到達点であるような(つまりキリスト的精神に殉ずる)
「人として」生きようとした、それが優先順位のトップだった。

信念に生きる、と心を決めるまでの悩ましい葛藤は、彼らの中でもバラつきがあって、
ただ全体の(といっても八人程度だが)まとめ役たるクリスチャンが苦悩の表情で呟いた
(答えを出すまでに我々は)「もっと祈ろう」「もっと考えよう」と提案するのが、
不思議と後まで心に残った場面としてある。

「祈る」は置くとしても、今の時代「(答えを出すまでに)もっと考えてみる」必要は
ありそうな気がする。
「もっと考える」は、社会の定めた相対的時間に「なんとなく」身を預けるのとは真逆の
主体的時間、すなわち「自分の時間」を生きる(大切にする)行為でもあるから。
「主体的に生きる」と「考える」とは切り離せないように思う。


思想の違い、究極には個人の違いを認めず、相手を傷つける暴力に訴えて黙らせる、そして
それを「大義のため」(必要だった)と正当化する。
ケースは変われど中身は一緒、人が人に平然と暴力を振るう時のお決まりのパターンだ。

「人」より「目的」が優先され、その成就のための「手段」は問われない。
賢さゆえに動物とは袂をわかったはずの「人間」は、エゴと欲に突き動かされるだけの
「動物」以下となり、人の皮をかぶった畜生の心がもたらすこの世の地獄、人から人への暴力、は
来る日も来る日も終わりなく繰り広げられる。
動物は自らを省みない。ゆえに反省とも内省とも無縁だ。失敗に学ばないから成長もない。
何時までも同じ場所(無明の枠内)をぐるぐる空しく回るだけ。犬が自らの尻尾を追い回すように。

言葉も含めてだが暴力に快楽を見出したが最後、麻薬のように取り込まれて、さらにさらにと
人を傷つけずにはいられなくなる。
そうすることで「なんとなく」自分が優位に立っている気分になれる、優越感に浸れる
(それが如何にみすぼらしいエゴかは最初から不問にされる)。
優越感を求めるというのはそれだけ劣等感が強い証でもあるのだが、その先を「考える」ことを
放棄した者に、そういう耳の痛い分析は届かない。自動的に聞こえないことになっている。
人の痛みに対しては何も感じないことになっている。つまり対他者への五感が麻痺している。
想像力といってもいいが。

暴力による解決は手っ取り早いようで後々まで因縁を引きずる、最も愚かな頭の悪い手段であると
今以上に多くの人間が気づいて、さらに足元からの(つまりは身近な日常レベルでの暴力阻止の
必要性に基づく)危機意識を持たないと、
本気で末期的に世の中ヤバイんじゃないかと、陰惨なニュースなど眼や耳にする度に感じる。
ニュースになる暴力だけが暴力じゃないだろう。
この映画の題材となった事件も、地理的にも状況的にも遠いようで、絶対に対岸の火事であるわけがないと
強く思えるのは、つい先日TVでオウム真理教事件を検証した特番を視聴した影響もあるんだろうが、
テロにしろ津波にしろ、まさか日本で起きるとは予想だにしなかったことが起きてしまう
紛れもない現実があるから。

それに被災地支援の一環でもあるはずの広域がれき処理の問題とか。
瓦礫受け入れに断固反対し、運搬トラックの前に立ちはだかる人々の姿をニュース映像で知って、
これを被災地の人々が見たら(見たんだろうが)どう思うだろうかと気になった。
日本という国や日本人という国民は本当に存在するのか、心もとない気持ちになる。











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