野村萬斎演出のサド侯爵夫人

野村萬斎演出による三島由紀夫作の『サド侯爵夫人』をBSPで視聴。

本編のプロローグとして挿し挟まれた野村へのインタビューで
“言葉による緊縛”に主眼を置いた演出(BSPシアターサイトより)だと語っていたのは、本業である狂言や能で培った
抑揚や緩急や強弱を、台詞に加味して音楽的グルーブ感をもたせる表現を指すのだろう。というのも
作者自身が自作解説にて「舞台の末梢的技巧は一切これを排し、台詞だけが舞台を支配し」云々と、
本作劇がシンプルな会話劇に徹することをすでに明言しているから。

第一幕の冒頭に取り入れた(おそらくサン・フォン伯爵夫人が勢いよく乗りつけた)馬のいななき声の
効果音と背景のブルーの照明とか、その前の(各幕ごとに何気に存在感を示す)鉄製の黒シャンデリアを
家政婦が引き上げる動作とか、野村流な印象で目を引いた以外は、本当に言葉に徹して
俳優の動きを意識的に抑制しているのが分かる。

これでもいちおう過去に、もう6、7年前になるか、同戯曲を観てはいて、きちんと比較できるほど細部を
記憶してないまでも、タイトルロール(ルネ)を演じた新妻聖子の演技に魅了された感覚は
おぼろげに残っていて、それからすると今回ルネ役の蒼井優は、台詞回しが蜷川シェークスピア辺りに顕著な
(と思う)怒涛の長台詞一気ぶちまけ感がしなくもなく、また若干聞き取りづらくもあったんだが、
第二幕での、建前に終止する母親(白石加代子演じるモントレイユ夫人)の偽善を辛辣にあげつらい
激しく対立する場面の開き直った悪女ぶりは圧巻で、テーブル上に載せた椅子の座面にふてぶてしく肘をつき、
娘の不埒をことさら嘆いてみせる母親に対し、挑戦的に微笑みながら憎まれ口をたたく終幕直前のやり取り、
およびそこで椅子を使った野村演出のセンスが良かった。

センスといえば登場人物の衣装がまた良く、お気に入りは一幕でサン・フォン伯爵夫人が着用していた
乗馬服をドレスに融合させたデザインだが、着る役者(麻実れい)の魅力で一層映えるのかとも思う。
麻実れい白石加代子の「メアリー・スチュワート」コンビによる言葉の応酬はさすがの迫力で
劇中で最も「言葉に緊縛された」のは自在に、また音楽的に言葉を操るこの二人の対話シーンだった。

長身の麻実れいが家政婦シャルロットやルネの妹アンヌを、気まぐれにからかい、冷ややかにあしらう時に滲み出る
中性的な色気は、宝塚(男役)出身の経歴に由来するんだろうが、今でも十分男装の麗人が似合いそうな
独特の佇まいがある。
そのクールにして艶やかな不思議な存在感と、まったく力まないのによく通る聞き取りやすい台詞回しの妙に
見入ってしまった。
中性タイプの俳優を洋画系で連想してみたが、ティルダ・スウィントンとかジェーン・バーキンとか
ケイト・ブランシェットとか、どうも違う、やはり誰とも似ていない独特な個性なのかもしれない。
(退場際にアンヌの頬へ軽くキスしただけで、濃厚に怪しげムード漂うのには参った)

再び三島の自作解説の件で、冒頭からつい笑ってしまうのが
「(前略)私がもっとも作家的興味をそそられたのは、サド侯爵夫人があれほど貞節を貫き、獄中の良人に
終始一貫尽くしていながら、なぜサドが、老年に及んではじめて自由の身になると、とたんに別れてしまうのか、
という謎であった。」とし、その「謎の論理的解明を試みた」結果が本作だと糞真面目に語っているくだり。
昔ほど熟年離婚に抵抗のない現代の女子からは、露骨に鼻で笑われそうな気もしないでもない。

貞節なんて妄想でしかない概念を一方的に押し付けられ(否応なく呪縛され)、矛盾だらけの自己正当化で
自らを欺き続ける忍耐にも疲れ果て、ここらが潮時と見定めて別れるのを「謎」と言い、
「論理的解明」などと大仰に持ち上げるお目出度さでも、かつては有り難く拝聴してもらえた。
一方で、女には釈迦に説法なのは昔も変わらなかったのでは、女の側からあえて口に出さないだけで、が
当たりならゾッとしないな、洒落にならん恥ずかしさに身悶えしそうだ(自分なら)。





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