仮面ライダーフォーゼ/部・活・崩・壊(41)&射・手・君・臨(42)


中島かずき脚本回。

一度はヴァルゴの脅しに屈し、ライダー部から逃げ出した部員たち(ユウキ、JK、美羽、隼)が、
弦太朗に感化されて戻ってくる盛り上がり場面にて、
ユウキが「部活も将来の夢(宇宙飛行士になる)も両立してみせる!」と宣言するのは、以前の回(第22話か)で
弦太朗に「それが俺の一直線」(だった訂正)と言わせた、二者択一でなく一挙両得主義で行く!という、
本作の主張の再確認の意味もあるのか。
大事なことなので二度いいました的な。

この展開に素直に乗せられて、そういえば我望理事長の野望とは具体的に何なのだろうと考えてしまった。
ホロスコープススイッチが12個揃ってコンプリートとなった暁には、何が起こると我望は期待しているのか、
「覚醒の日」とは、等の素朴な疑問が久々に山と湧いた。

だいたいフォーゼやライダー部は、目先のゾディアーツ化した学友を救うだけで(無論それが一番大事だが)、
そもゾディアーツ化現象の大元は何であるのか、何故に天高に特化してこのような厄災に見舞われるのかを
解明すべく、部員一同協力して根本的な原因究明を試みる描写に乏しいので、さほど危機感がないというか、
その他大勢の天高生徒たちとの間に(単発エピ以外では)ほとんど交流もないしで、彼らのハリキリだけ
浮いてる感じが否めないというか、

たとえば部室での作戦会議のような恒例イベントが毎回挟まれるだけでも、印象は随分違ったんではないか。
視聴者にとっても、わかりにくい進捗状況(戦いの一部始終から引き出せる情報をどこまでライダー部が
把握しているか、ようは部としての活動実績)に関する整理も兼ねられて、一石二鳥だったと思うんだが。

ヴァルゴ=タチバナ=江本、は友より力(エゴ)を選んで賢吾父を殺してしまった過去を悔やみ、贖罪の意識から
我望の元に留まりつつ、ひそかに賢吾にはフォーゼシステムを、流星にはメテオドライバーを送り、
我望の野望を阻止できる対抗勢力を育てようとした、
弦太朗一人でコズミック形態に変身させねばならない必要も、その一環だった、

ただし、江本は「友情にこだわるからコズミックに変身できない」と考えたが、弦太朗としては、
友情を結果的にとことん信じ切れなかったおのれの不徳の致すところ、との結論を得た、ようするに
「コズミックへの変身が出来るか出来ないかは、友への信頼の問題、弦太朗自身の気持ちのブレの問題」だったと。

なにも四六時中ベタベタつるまずとも、物理的距離は離れていようとも、友は友、心はいつもそばにいる。
変わらぬ友情がそこにある。
これは友のみならず、愛する人たち親しい人たち全般に言えることだろう。彼らを信じるか信じないかは
自らの度量次第だ。

「何があっても友を守れ!」と弦太朗に言い残し、江本はレオ&リブラとの戦いに散った。
悔やんでも悔やみきれない過去の過ちを、最後は彼なりの精一杯の誠実たる命を以って購った。

この辺は「人の善悪」にかかわらず「行いの善悪」によって相応の罪の報いを受ける、と展開させることで
特撮ヒーローの古典的(お約束的)勧善懲悪とは一線を画しつつも、王道はきっちり保守したい書き手の
こだわりの反映だろう。

記憶違いでなければ過去エピを除き、フォーゼで初めて人の死が露骨に描かれたと思うが、勧善懲悪に
則りながらも、一人の人間が取り返しのつかない過ちを深く悔いた後で、どう生きるか、
どのような罪滅ぼしがなしえるのか、どこまで誠実な生き方が出来うるか、を描いた点で非常に感慨深い。

自らの心の弱さが招いた災いに自分なりに落とし前をつけようとした、江本の人としての矜持と責任感の示し方は、
子どもから見ても説得力ある大人の背中なんじゃないか。「王道を外さない」とはこういうことでもあると思う。



余談。先週の41話での、立神(レオ)と速水校長(リブラ)のそれぞれ相手への罵倒が面白く。

レオ「ちっぽけな疑念で心のバランスを崩す、だから天秤野郎は駄目なんだよ!」←巻き舌入り
クルミの殻をリブラの頭部にぱらぱら落とし、悠々と引き上げるレオさん。
立ち去った方向に数歩よろめき、リブラの変身を解くと、顔を上げ、そちらを睨みつけつつ
速水「・・・単細胞の忠犬獅子公め!」

これたとえば他の星座だったらどういう罵倒表現になるだろう、とかちらと思った野次馬興味で。
あと結構その星座に該当する性格がキャラに割り振られているのだなと、変なところで感心したりなど。






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