中二病とはなにか


以前に清盛記事へコメされた段階で、言葉の認識のズレが気になってはいたが
以後も(公共の場で)何度となく、最大公約数的なある一定の共通認識から外れた、いや正直
見当違いな使い方をしている例を目にする機会があり、
意味の通じなさに頓着しない
「意味よりあやふやなイメージ(多くは瞬間的ダメージを不特定多数に与えたい悪意から)重視」
の態度に驚いたし、それを知りながら放置はマズイかもしれないと思い直し、
いまいちど言葉の意味を点検した上で、私個人の認識をメモっておく。


元々の私の認識は、ひねくれて斜に構える態度をカッコいいとする精神年齢に対してであったから、

ゆえに父忠盛に反発し、わざと不良キャラを演じていた初期の清盛だの、
先行きにこれといった希望なき頭打ちの自暴自棄から、戯れの悲劇ごっこに興じていた後白河坊やだのに
その傾向を感じはしても、

後に清盛が父の遺志を継承して力説するようになる「武士の世をつくる」のくだりは、
定義とは合致しないせいで、アンチ意見に当たり前のように飛び交う中二病呼ばわりには違和感がつきまとった。


参考までに:中二病wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%8C%E7%97%85


上記によると

当初は
「(日本の教育制度における)中学2年生くらいの年代でありがちなこと」といった意味だったのが

広く一般に敷衍して以降は
「思春期の少年が行いがちな珍妙な言動に対する蔑称の一つ」として定着するに至った、とある。

2つを総合して無難と思われる線を探るならば
押さえるべきポイントは、
中学二年生程度と想定される精神年齢に相当する言動に対しての言葉、という辺りに落ち着くだろう。


◇他にもDQN系(反社会的な行動や不良を演じる)、※私に言わせりゃこれぞ「斜に構え」系
サブカル系(マイナー路線な俺かっけー系)、※「特別」な存在への憧れが妄想自分キャラ構築に繋がるセカイ系
邪気眼系(超能力等の特殊な力に憧れる)、※サブカル系と被ってるっぽい

があるそうだ。

まあでもだいたい意味するツボはどれも重なっている気がする、ようは中学二年生程度の言動かどうか、が
見極めの際のキーになると、別に一言で要約しても構わないんではないかと思う。

中学二年、年齢で言ったら13か14か、くらいの年頃の子の多くは
思春期の初期症状で考えても、とにかく世の中をニヒルな視線で眺める、斜に構えた態度が大好物であり、
逆にひねりのない王道を「ガキくさい」と馬鹿にする傾向が顕著なはずだと、経験からも思うのだが、

どういうわけか、大風呂敷広げてド直球で理想を語るのが中二病だと一部には信じられているらしい。

まさか。

中二くらいの年頃なら「ひねりなしのド直球」など最も嫌う「恥ずかしいこと」のはずだろう。
光より闇だし、正統より異端だし、主役より敵(悪)役だし、素直だの真っ直ぐだのは
「ガキ臭いことと思い込んでる」から強烈に毛嫌いするし、現実の凡庸と脳内の自意識過剰発動による
カッコいい俺のバランスが釣り合ってないのに、気づかないか気づかないふりで
「痛い自己演出(の設定キャラ)をやり続ける」し、

そんなもんだろう中二って14歳頃って。

たとえば特撮の王道ヒーローなんてのをそういう言い方で表現するなら、
中坊(中学生)よりは小坊(小学生)の方がまだ適切なくらいだ。
あれは富野由悠季だったか、人の感性の根幹部分はすでに10歳で形成されると言ったのは。
成人しようが年齢を重ねようが行き着く、というより戻ってくる精神の根っこが
斜に構えてひねくれる前、思春期以前の子供の頃にあるらしいのは、自分を振り返っても
なるほどと納得するし、おそらくはご本人も経験と実感を踏まえての発言だったと想像する。

さんざん否定に否定を重ねた果てに、まだ純な憧れや希望や夢や理想を持ち得ていた自分の中の子どもを
無理なく自然に肯定できるようになれば、いっぱしのオトナの仲間入り、

基本的にオトナとは中二病に代表される「切実極まりない自意識過剰」とは縁がないので、ド直球の理想にも
衒いなくいいねと評価できるし、やたら斜に構えることもない。

それで冷静に等身大の自分を知る者への中二病呼ばわりは、中傷にしかなりえない、と言った。
今もその意見は変わらない。





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