フォーゼ&ゴーバスターズ感想と勧善懲悪についての呟きまとめ(補足追記あり)8/26&28分


※これ以上ない説明タイトル。
内容記述の正確さに努める律儀とそれに伴う文章の物理的長さは比例するw
まとめの後に補足追記あり。もう少し書くつもりが力尽き。機会があればさらに考えてみたい。

※善悪も正邪もなくばこの世は闇だが闇にさせないために人がいる、人の存在価値の根底には
「誰かのため」が誰しもに例外なくある、なければ生きていけないのが人という生命体。



2012年8月26日

フォーゼ。我望を恨まず止めてくれ。この一言を入れてくれただけで中島かずき天晴れ!と拍手する。
善悪は人でなく行為にある。特定の利益のための正義でなく公共善を目指した正義でなくては嘘だ。
善悪の白黒つける正義は間違いなく「ある」。ただ行使する側の器が問題なだけ。

夏映画における過去キャラの扱いについても、パンフにコメント無しの状況からある程度の裏読みは可能なので、
もうそれで十分だ余計なことは言わずとも、という気になる。個人的にあれは「不本意」と捉えたが
大して外してるとも思わない。世の中思い通りに運ばない、はメイン脚本家も同じなのでは。

正義を「要らない」とか「人それぞれ」とか短絡で切り捨てずに、本来の意味を価値を取り戻すべく
知恵を絞る努力が大事だし、今後より必要とされるんじゃないか、そんな風に思えてならない。
責任の所在を曖昧にしたがる(リスクを背負うのを嫌がる)保身第一の卑怯な相対主義に未来はない。

我望曰く「自分が宇宙に旅立つ時この地上は消滅する」の唐突にして根拠なき大言壮語だの、
スイッチから生まれたコアチャイルド=異形な賢吾が安易に人間になるだの、数々の謎と違和感に
「細かいことはいいんだよ」で押し切るならそれはそれで。辻褄合わせ以上に大事なことはあろうから。

弦太郎と賢吾の固い友情が、他人を犠牲にしてエゴを満足させたがった我望の暴走を、相手を包み込む
慈愛をもって押しとどめた。愛は人(の心)を変える。人の中で善悪は固定でなく憑依に近い、つまり
変化の可能性は常にある、ということ。その考えには全面同意する。



ゴーバスターズ。以前からさんざん褒め倒してきた柴崎貴行監督のショット間の「繋ぎの上手さ」が、
今回の赤、青、黄、銀の各変身の前中後をワンカットで収めた手腕に遺憾なく発揮されてたと思う。ナイス!

”樹液”くんの俺さま完全KYキャラも確立されて喜ばしき限りだが、ああいうぶっとんだの含め、
色んなのがいてごちゃごちゃやってんのがいいんだよ面白いんだよ平和なんだよってことを、
子供らが説教めいた押し付けの「言葉」でなしに、→

→目に入る楽しい「画ヅラ」からなんとなし感知してくれるのが理想だし、「人それぞれ」の無責任・
無関係な立ち位置とは似て非なる寛容精神を浸透させることが大事なんではと思う。




2012年8月28日

アギト全話視聴して、社会情勢を鑑みても善悪の対立軸が人類と同列の種族(グロンギ)ではマズいから
超越者の意思の代行(アンノウン)にしようとか、ヒーローを悲劇を一心に背負う救世主にしない
(ラストの描写)とか、クウガのアンサー的作りであるのがよく分かった、当時の白倉の忸怩たる心情も。

とはいえ自力での判断力が期待できない子供相手に「正義は人それぞれ」で投げた無責任への批判を
撤回する気はなく、それはまた別の話だから。

種族間の争いに迂闊に善悪は持ち込めないのと、人間側が「手続き」の問題をすっ飛ばして即バトルに
突入した時点で「どっちもどっち」の泥仕合にしかならない、そこがクウガの勧善懲悪に同意できない点
(今更の主張の繰り返しだが)。

けれどその後の高寺P作品、響鬼にしろカノンにしろ、悪の捉え方が「悪人」から「悪意」ないし「悪行」に
シフトしてきた変化を好意的に支持する気持ちに変わりはないし、ライダーの全体傾向としても
平成二期以降に同様の方向性を示しているのが興味深く。

勧善懲悪と暴力行使の正当性を両立させる困難が、フォーゼ最終話には詰まってた印象。特撮ヒーローを
成立させる大変さをあらためて感じ入り、諸々突っ込みたくとも制約多い中よくやったと労う言葉に
集約されてしまうのはある。作り手が作品に込めたい思いは(出来はともかく)察するので余計に。




※フォーゼの勧善懲悪について追記

フォーゼが戦う(暴力を行使する)のは、悪の象徴たるゾディアーツを倒すことで
(自分の中の制御不可能なほど増幅拡大された悪に振り回される生命の操り人形状態から)生徒を救うためであり、
「悪」に憑依された「人」を、再びニュートラル状態に戻す作業を「勧善懲悪」と位置づけてきたのが
ダブル(W)以降の方法論。

特撮ヒーローの作劇の基本は(勧善懲悪そのものを否定したくていくら足掻こうとも所詮は)
「善が悪を倒す」構造にあり、しかし一方でそれは現代社会の観点からリアリティを欠いた絵空事
片付けられるシロモノでもある。人が善悪どちらにしろ100%の役割を背負えるわけがないとの認識が
広く一般に浸透してきた時代に、いかに勧善懲悪の課題をクリアして作品に説得力と面白さを獲得するか、の
ジレンマは常に作り手に付きまとう。

暴力は「人を救うため悪を退けるため」で「悪い奴をやっつける(倒す)ため」ではない(倒すこと自体が
目的ではない)、とする平成二期のスタンスは、看過できない時代の(社会の)要請でもあっただろう。
では具体的に「悪」を「人」以外でどう表現したらいいのか、うまく映像としてハマるのか、「憑依」の発想は
そういった模索から生まれたのではないかと思う。

ホロスコープス戦における彼らの生死の取り扱いも、我望理事長は生きて切り抜け、校長と立神は
死んでしまうが、何処らへんに線引きがあるのかを直線的に問うより、勧善懲悪の作劇の必要性から
逆算していけば、なるほど苦しい判断でも他に良案代案がなさそうに思えてくる。

我望は賢吾父の殺害を指示した男、実行犯たる江本は既に死に至った、悪行を犯した者には必ず相応の
罰が下る(犯した罪は看過されない)、この流れも勧善懲悪を成立させるには外せない展開だろう。

しかしその厳しさはフォーゼ=弦太郎のキャラではない、それでいて同時に勧善懲悪の筋は通さねばならない、
ゆえにこそ悪のトップたる我望の死はああいう形で訪れる、ただそのパターンを校長や立神にまで適用するのは
さすがに不自然なので、彼らの死はヒーロー側の暴力が直接原因となるこれまでの王道をなぞるのだろう。

校長は咄嗟の身代わり行動で攻撃のど真ん中に飛び込んでやられるとか、立神のバトル相手がメテオであるとか、
その辺にせめてもの抵抗(主役ヒーローの基本スタンス「戦うのは相手と友だちになるため」を崩さない)を
見て取れる。勧善懲悪路線を守るのが如何に大変か、難儀であるかを垣間見る思いがする。


クウガの勧善懲悪について補足

善悪構造を種族間の争いに持ち込むのは同意できずとも、五代という個人に息づく勧善懲悪には同意できる。
正義と暴力とのせめぎあいで苦悩する姿こそ平成一番と言いたくなる所以だから。
あの優しさにこそ個人的に理想と思う特撮ヒーローの姿が詰まっているから。




.