存在感がモノを言う


高倉健インタビューSP(プロフェッショナル仕事の流儀という番組)を録画視聴。
興味を引かれたのが北野武による健さん評価で、以前より私が主張するところの
「岡元次郎はスーツアクター界の高倉健」説が連想されて面白く聞いた。

曰く、

動物で例えるとシロナガスクジラ、いわゆる「演技」をしなくていい、
デカい太平洋とかそういう海を、ただ泳いでいってくれてればいい、
(略)
ただ泳ぐだけで、あの人は立派に絵になるなあという感じがする、等々。

まさに。

何を演じようと「どこを切っても金太郎飴」ならぬ岡元SA以外の何者でもない存在感が
厳としてある。佇まいから所作の一つから立ち上がってくる。
その認識は出会った時から今もって変わらない。

あの「よらば切る!」の空気を引き裂く凄まじき気迫が、
もう一度見たい、この上なく恋しい。

もう一つ。

俳優が私生活を晒すことへの抵抗を語る高倉健は、役のイメージに影響しかねないと
徹底して生活を隠し、見えないプライベートすら厳しく律してきたというが、
これもスーツアクターという仕事の性質に通じる美学のように思われる。

顔を表に晒さず、顔出し俳優の演じるヒーローの変身後の姿を、その俳優になり切って演じる、
いわば持ち前の個性を消した(または極力抑えた)身代わり役に甘んじながら、

しかしそれでいて、面の角度を始め身体のパーツ一つ動かすのにも、
キラリと光る独自の魅力が、拭い難く立ち現れる。
いわんや本格アクションをや。

メタルダー某回のような全編仮面劇とまでいかずとも、あくまで硬派かつ熱い脚本による
スーツ同士のバトル中心で構成された作品を、コンスタントに見たい願望は常にある。
もうこれはほとんど文楽やバレエなどに寄せる期待と遜色ないんじゃないかという気がする。

通常の台詞でもストーリーでもなく、肉体が、アクションが、語る言葉に、
耳を傾けたい、この目で読み解きたい、

こともなげに生成と消滅を繰り返す偶然の美を、
瞬く間に咲いては散る儚い夢の断片を、心ゆくまで寿ぎたい。






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