価値には絶対と相対の二種類があると思う

偶然知った押井守の日経での連載記事を面白く読んだ。曰く、

永遠のテーマたりえるのは「勝敗」であって「幸福」や「正義」でないことは半ば証明されている、の主旨は
世の中的に、社会現象的にという意味と理解したが、いらぬお世話でインタビュアー務める編集部の人間が
直後に勝手に注釈設けて

「正義」や「幸福」とはある種のイデオロギーであり、常にある集団・個人にとっての正義や幸福でしかない。
つまり立場や視点が変われば価値も意味も変わってしまう。したがって映画を観るであろうあらゆる人が納得しうる
人類共通の「正義」や「幸福」は存在し得ない……ということだと思われる。

などと尤もらしく解説するのには閉口した。

人類共通の正義や幸福は存在し得ない、などとそこまで大上段に振りかぶって言い切れるのか、押井守という名の
威光を借りて大胆になっているのかしれないが、幸福や正義という概念を「ある種のイデオロギー」程度に
矮小化されてしまう(しかも押井本人でなくインタビュアーによって)その断定自体に強い引っ掛かりを覚える。

イデオロギーの枠に収まる幸福や正義など二流三流で、相対価値しか持たぬものに照準を定めても無意味だろう。
たとえば絶対価値たりえる幸福を「生きる歓び」に、正義を「生命(の尊厳)を守る」ことと
「(物事の)道理を通す」ことに見出すのも可能だろうし、押井が言ったのも、ただ漠然と形にし難い
「概念」ではあるから、映画のテーマには向かない、相応しくない、というだけのことではないのか。

にしてもアルドリッチやロッセンの硬派な映画群を、お得意の勝敗論の観点から評する試みには、
自らの経験を踏まえた分の揺るがぬ説得力が備わっている。
「いまの映画を見てもしょうがないんですよ。昔の映画を見ないと。今の映画をいくら見ても
全然役に立たないんだもん。学ぶべきものがない。傾向がわかるだけ。」とのくだりにも同意しきり。

娯楽といえば映画だった時代の作品は観るだけで勉強になる、観る目が育つと、そういえば昔いわれた覚えがある。

そろそろ「古典」を再び引っ張りだして味わい直すのもいいかも。観た当時とはまるで違う見方や感想が
出てきそうではある。






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