ゴーバスとウィザードとロード・オブ・ザ・リング


録画分のゴーバスターズ(30)&ウィザード(3)を視聴、どちらもある点が共通していて興味深かったんだが、

前者の場合なら「私情より公務を優先するプロ意識の発動」という展開の理屈上のみに留まらせない何か、
それは今更どうにもならない(もう元の状態には戻せない)身内に対する個々人の未練(感傷)に引きずられて
判断を誤れば、結果として世界に取り返しのつかない悪しき状況を蔓延らせる元凶となると、手に取るように
分かっているがゆえの、断腸の思いでの「諦める」と覚悟の上での「失う」選択を彼らにさせた何かであって、

シンプルに表現するならそれは世の中にとって人々にとって「正しいこと」をする、またはしたいという
公共善への強い意識が、自分さえ良ければのエゴを凌駕した結果なんだろうと思う。しかも追い詰められた末の
土壇場の選択だから一層の重みが備わる。人としての誇りを堅持すること、それはまた個々人が社会に果たすべき
(還元すべき)義務とか責任の話でもある。私利私欲に溺れて停滞する魂に、希望という名の光もたらす
善性は宿らないんだと。

後者のウィザードも然りで、認めたくない苦い真実より耳に心地いい甘い嘘の方を信じてしまう人の心の弱さを
「悪」は巧みに突いてくる、という内容は、子供向けやファンタジーの範囲に収まらない普遍のテーマでもある。

お前の魔法は偽物だ、絶望させる目的で「奴ら」が騙していた(使えるかのように錯覚させていた)のだと
相手を思いやる気持ちからありのまま真実を伝えた晴人は、その虚飾のない的確さゆえに「(自分だけが
魔法を使いたい)嫉妬から(僕の魔法を)妨害した(だから使えなかった)」と邪推され、逆に敵視される羽目に陥る。

人は得てして自分の聞きたい声を聞きたがり、それを真実だと思い込みたがる。本当は違うのかもしれないとの
冷静な疑いを無理やり打ち消してまで、真実を自ら遠ざけようとする。これすべて無明のなせる技、人の持つ弱さ所以だ。
さらに開き直り、これも人間らしさだと嘯く往生際の悪さに至っては、自らの弱さに敗北した姿に他ならない。
必死に取り繕い虚勢を張るのは何故か、誰のためかと問えば己の卑小なエゴを満足させるため以外になく、
つまり公共善とは真逆の考え方を自らに許しながら、上述の特撮ヒーローを語ればダブスタの謗りは避けられないということだ。


ところで映画『ロード・オブ・ザ・リング』をきちんと観たのは初めてのような気がするほどに、先日BSで
放映された分の録画を観て、まったく思いもよらず深い含蓄や象徴が詰まった内容に(大袈裟でなしに)
全編ほぼ途切れることなく驚きと感動の押し寄せるのを体験した。

そこはやはりトールキンの原作の強みだろうか、人が人として最高に輝くために学ぶべきことが、手本として
鏡として謙虚に見習いたい大事なことが、ファンタジーの形態を借りて余さず詰め込まれている。

「悪と戦う」とはどういうことか、義務や責任についての考え方、果たすべき役目を自覚し、そこから
逃げず怖じけず果敢に立ち向かう「勇気とは」何なのか、
自分の愚かしさ弱さをどう謙虚に受け止め、それと戦っていくか、「自分に負けない」とはいかなる姿なのか、
他者への信頼、自己への信頼、ほんとうの意味でそれは何なのか、どういうあり方なのか、等々、
めくるめく問いと発見の嵐にもみくちゃにされながら、瞬きするのも惜しい勢いで食い入るように観た。

大それた野望とは無縁な身体の小さいホビット族のフロドが、数奇な因果から邪悪な指輪の処理を託されて
旅に出る羽目になる。フロドにとって指輪は自身が手に入れたいと積極的に望んだわけでもなく、関わりたいとすら
思いもしない、傍から見てもなんという迷惑な話だろうと気の毒になる「厄災」に思えるのだが、フロドは
困惑と恐怖をそのこぼれんばかりに大きく見開いた双眸の奥に揺らめかせながら、なし崩し的にであれ
その課せられた役割をこなすべく無我夢中で頑張る、持てる力を義務を責任を果たすため惜しみなく使う、
これは一体何なのか。

指輪とはなかなか思うように運ばないままならぬ人生の比喩なのかもしれない。隙をうかがっては絶えず
堕落の道を指し示しそそのかしてくる指輪(悪)の誘惑をそのたびに果敢に退けながら、
気の遠くなるほど地味で困難な道のりを一歩一歩踏みしめ歩いているのが、すなわち日々を生きる我々の
姿なのではないか。指輪=悪を捨てる旅、決別する旅、そのフロドが辿る旅の全過程が人生そのもののようだ。

そうか、だから彼は三作目のラストで遠い彼岸へと旅立つのか、現世での役目を終えたから、とふと気づいたことだが、
これまできちんと観てなかったのを惜しみつつ、いやいやあるいは今だから気づけたことかもしれない、とも思う。








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