好き嫌いと良し悪しについて批判の観点から考えてみた

先月Eテレ『こころの時代』(←基本は宗教関連の人がゲストらしいが、たまにそうでない一般のゲスト回があり、
以前にも辺見庸の回など充実した内容だった、
でも枠が枠だけに視聴する人間が限られるのは勿体ない気もする、ETV特集とかでも良さそうではある内容的に)にて放映された
亀山郁夫によるドストエフスキー作品解釈語りに興味を喚起され、今更ながら手にとった『悪霊』だったが、
米川正夫訳が今回ほどとっつき悪く読み辛く感じられたことはなかった。
(もちろん原訳や江川訳などよりさらに過去に遡る年代の訳なので、相当に時代がかった言い回しや
今ならまんまの名称で通用するだろうファッションや食べ物に関しても、無理に日本語訳した奇妙な単語使いが含まれるわけだが、
そこがまた小説の書かれた19世紀の時代背景にマッチしているとも感じられ、却って好ましかったりする)

遠い日に読了した『罪と罰』にも『カラマーゾフ』にも、ドスト特有の雪崩を打って加速する怒涛の展開と
息も切らさぬ臨場感と迫力ある会話劇に、やたらな力技でもってかれる感覚が漲っていて、
様々な登場人物のパワフルに吐き出す「激情」が紙面を野放し状態で跳ねまわり、
勢い余って先へ先へと加速度的に突っ走っていくのに
遅れじと読み手も息せき切って全力疾走で追いかける、というような、
文字を読み進む際の爆発的推進力を有していたと記憶するが、

悪霊に於いては思いの外、読み進む勢いが削がれてその場に立ち止まる回数が多かった、
まるで苦しさに身をよじる身振りを思わせる展開の歯切れの悪さ
(何度も言い淀むたびアプローチを変えて再度トライするのに近いイメージ)は
どこから来るんだろう、

ただし、分かりづらさ読みづらさと内容の良し悪し(読み手の心に響くか否か、またどれくらいの深度で衝撃で届くか)は、
また全く別物なのである。
むしろサラサラと難なく流れていく読みやすい語り口ではない分、
物語「らしさ」の鋳型に収まり切れない作家の複雑かつ切迫した生々しい心情が、
不意にあちこちに突出している印象を受ける。

そのドスト作品関連で検索して見つけたのが、光文社版カラマの亀山訳に対する批判サイトで、
私個人は亀山訳には馴染まなくとも、誤りだと断定する批判には同意しない立場(厳密には批判内容の是非以前に
亀山解釈への曲解した受け取りが全てとは言わないがあるように思う)ではあるのだが、

批判の観点が一貫していること(原文のニュアンスを極力損なわない翻訳を望む)と
根底に深い作品愛(少なくとも好意好感の類)があること
(なればこそ翻訳者ならび出版社側の利害優先で翻訳の正確さに重きを置かない対応に不満が募る)には、
批判する際の姿勢として率直に同意する。

でなければ、プロの批評家でもない我々素人風情では、
たかが鬱憤晴らしのためにする悪口陰口や重箱の隅つつき的アラ探しにしかならず、
目的においても作品のために敢えてする批判というよりむしろ、批判のための批判、
卑小なエゴを満足させたいがため、つまりは利他の意識が欠片もない
(自分以外の不特定多数の他者と楽しみを共有するような、何か公的なもののために奉仕する意思の皆無な)、
将来的視野も含めて批判が少しでも善き結果に繋がることなど最初から期待しない、ただおのれの中の悪意を他者にも撒き散らし
半強制的に低劣な感情に引きずり下ろしたい、つまりは嫌がらせ、恨み辛み妬み嫉みの強烈な悪臭を放つドブたらんとする
ネガティブな快感のためだけの批判、というよりもはや中傷でしかなくなる、
愛がなければ全ての批判は無意味であるどころか害悪になってしまう、最近とみにそんなことを考える。

また愛が「作品」でなく「作品を愛する自分」に向かうなら、たとえ批判の逆をいく擁護であれ賞賛であれ、
やはりそれはエゴの充足目的の域にとどまり腐臭を放つのだろう、
そこに利他を感じさせる爽やかな香気に満ちた精神が息づいてないのだったら。

ところでその手の興味も絶えて久しいゆえ全く知らないのだが、現在放映中の朝ドラ『純と愛』の設定や場面における、
ちょっと現実にはあり得ない諸々のフィクション的な取り扱いに対して
(例えばホテルのロビー等で従業員が大騒ぎするお約束的展開、純ちゃんは脱線ばかりでいつ仕事してるのか不明、
「偶然」任せの展開の多さ、等々)トボけた作風とも無関係じゃないはずのリアリティの欠如を、どういうわけなのか
執拗に糾弾され続けた前作並みの、ああいった批判は現在もあるんだろうか、

本気で朝ドラでのリアリティの希薄を危惧するなら、前作と変わらぬ意欲と情熱が当然にして
今作にもつぎ込まれていなくてはならないはずである。何故ならそれが「一貫性」というものだからだ。
それが出来てこそ、誰に遠慮も気兼ねもいらぬ、その人独自の考え、意見、誰に恥じるでも臆するでもない、
いっぱしの個人の主張となりえる。
そうでなければ好悪感情の暴走するがまま、これというターゲットを定めて集中攻撃するイジメの構図と変わらない。
多数の側に属する安心が多数を意識した嫌らしい媚びを生み出し、さらに調子づいて一緒に盛り上がって貶すことで
目配せで通じるような「共犯関係の一体感」を得たい、
安っぽい同意による親密感で繋がる心地よさを得たい、
まさに原理は同じ、我欲を満たすために誰かを何かを利用して貶める、踏み台にする、ネガティブな快感だったと、
その場の気分に右往左往揺れ動くばかりで、自分の意志というものとは無縁の烏合の衆の一人でしかなかったと、
自ら認めるも同然ではないだろうか。

そこで批判というものに関して自らを顧みるに、少なくとも個人の好悪評価以外において、
たとえば東映SHT枠での対象が幼い子供である点を踏まえれば、番組の性質上暴力を扱うのが外せないからこそ
そこに正当性を付与しうる、確たる理由付けが不可欠なのは論を待つまでもなく、
それを嫉妬や怨恨からとか些細な誤解が元でとか、単に気に食わなかった、苛々したから等、
どれもヒーローらしからぬ理由による暴力を是としてきた=ヒーローはどんな暴力も許されると洗脳してきた作り手の
無責任が招いた、特定の世代に浸透した一定のネガティブな影響は確実にあるだろうと思う。

そもそも来し方のSHTの歴史を振り返っても、最低限の倫理の歯止めがしっかり設定された上で、律儀に堅持されてきた
(守られてきた)からこそ、ヒーローが実力行使(暴力)で問題を解決するお約束が社会的にそこそこ容認されてきたわけで、
その大事な理由付けの担保となる設定を取り払ってしまえば、規制がなくなり自由になったように見えて、
結局のところは(長いスパンで考えれば)番組自体の存在意義を潰す自殺行為に他ならないことぐらい分かりそうなものだが、
自分で自分の首を絞めてどうするのかと思う、

このゆるい世の中に迎合していればいいというものではない、
麗しい友情だの悪を退ける正義だの悪と戦う勇気だの、たとえ建て前の理想論であろうと、実はその綺麗事が大義名分が、
番組枠であるシリーズとしての一貫性を維持してきたことが、何故わからないのだろう、
こんなシンプルな理屈が、暴力と倫理が(番組にとって)離れがたき表裏一体の結びつき、
番組を大義名分で武装する強固なワンセットであることが。

本来なら誰に指摘されなくとも、子供番組制作会社の矜持と誇りに敏感であるべきを、もどかしく思い、
大丈夫だろうかという危機感は今も消えずにある、
そしてそれは現トップの意向とかそういう卑近な次元の話でもない、
目に見えない形なきものの大切を忘れ、もはや無用とばかり時代遅れの骨董扱いで切り捨て退けてしまった果てには、
殺伐とした刺激の安っぽさ以外は何も残らないのだということ、
何を自分たちが失いかけているのか、

上辺の利益や繁栄は過ぎ去るものだが、作品は残るのである後の世にも。
「そういうもの」を作っているという自覚のあるなしが、いかに必要か大事か。
たとえばヒーロー同士の仁義なきバトル設定は、せめてゲームのフィクションに留めておけばいいものを、
ドラマ映像化との境界線を簡単に踏み越えて悦に入る作り手の浅はかさ浅ましさはどうしたものか。
自分の中に確固たる倫理的基準なき者が子供向けヒーロー番組に携わってはいけない。
自分の抱えた欠落は自分一人で背負ってくださいと言いたい。アタリマエのことですよと、分別ある大人なら。
これこそ個人による作品の好き嫌いではない、
その番組枠自体を成立させる存在意義の根幹を問う、良し悪しの範疇だと思っている。

しがらみも利害関係もない立場だから嘘偽りなく本音を言えることもあるだろう、であればなおさら、
か細き声でも言い続けることに意味があるんじゃないかとの淡い期待を完全に手放したわけじゃないが、
しかし先の亀山訳批判サイトにあった嘆きじゃないが
「番組としての良し悪し」と「個人としての好き嫌い」の区別がつかず、両者を同じことと受け取る人が多数派を占める限りは
どんな働きかけも結局は無駄なのかもしれない。

これまでの視聴した感想等、全てその根底にあるのは応援の気持ちであって、
投げかけられたボールをきちんと返したい、返さねばならない、そういう応答義務に駆られるのは、
言うまでもなく番組への愛着からだが、肝心の作り手に届かないなら無意味なんだよな、との気持ちに傾いてきて、
しばらく更新する気が起きなかった、というのもあったんだった実は。
まあ主な理由は(どういうわけだか急に増えた)真似っこ投稿につくづく嫌気が差した、であったが。
(以前にもあったので「またか」という感じで)