好き嫌いと良し悪しについて批判の観点から考えてみた(2)


ドスト悪霊や亀山解釈について、まだ殆ど書きたいことが書けてない
(読んだ観たの報告止まりで)片手落ちなのは承知だが、
前回の補足追記を避けて通るわけにはいかない。
読み返して言い落としの多さに目眩がしてきた。

まず確認しておきたいのは、
作り手と受け手の別なく、作品をめぐる何か統一された意見の総体がある、などという考えは
所詮は甘い幻想であり、そのような事態はまず確実に期待できない現実をしっかり見据えるなら、

朝ドラが「朝に相応しい爽やかなドラマ」ではなく、
単に「朝の時間帯に放映しているドラマ」の略称に過ぎないことは最低限共有しうる認識のはずで、

であるなら、前者のイメージに固執するのはそれこそ「個人の主観は万人の主観である(両者は一致する)」
というような、あり得ない幻想に踊らされている証左だろうし、

「(朝に)相応しい」も「爽やか」も番組の存在意義を保つ普遍的条件とまではいかず、
あえて言うなら「たかが個人レベルの好き嫌い」に過ぎないことを踏まえた上で、個人の主張として
個人的に希望する理想の朝ドラのスタイルとして、唱え続けるのは別にいいんじゃないのと思ってる。

この日本という国で誰であれ好き嫌いを主張する自由が認められているのは当たり前、だが
それを力で弾圧してくる輩もいる、
たとえば個人のサイトに匿名で嫌がらせをしつこく仕掛けるなどがそうで、
民主主義国家の恩恵を受ける人間として恩を仇で返すに等しい、いかに恥ずべき情けないテロ行為か、
やってることは嫌いなものを排除したいという幼児並みのワガママからくる口封じである。
ある対象を嫌う感情と、それを理由に、対象を実際に排除しようとする行動の間には、これも言わずもがなだが、
天地ほどの開きがあるのだ。

ただリアリティの欠如云々も含め、いったいどこまでがタブーとされない朝ドラの許容範囲であるかを
厳密に線引するのは難しく、どう判断するかは、現実世界の第三者に対し、明らかに重大な迷惑をかける場合を除き、
最終的には視聴者各位の主観次第、ということに落ち着くしかなさそうに思われる。

それが受け入れ難いなら、駄作!とバッサリ切ってそこで視聴を止めれば済むわけで、かつて東映平成ライダーシリーズが
もたらしたヒーローの暴力と倫理の不均衡問題に比較すれば、番組の存在意義の根幹が揺らぐほどの大問題とも思えない。

幼児相手に「正義は人それぞれ」だと洗脳し、凶悪犯すらもヒーローとして扱い、目を引く派手な見世物として
ヒーロー同士が戦う道具(機械)と化して殺し合う殺伐たるバトルを提供し続けてきた
(しかもその方向性を先頭に立って進めてきた人間が今や実質トップに位置する)東映の場合は、
本来なら放送コードだの視聴に年齢制限を必要とする映倫のような基準、レイティングとも絡む深刻さで、

しかもおよそ10年かけて洗脳した成果か、ファンの高い支持が安定しており(平成ライダーシリーズは
幼児以外の年齢層、主流は放映当時では小学校高学年〜思春期くらいの10代か、のファンが結構多い)、だいたいがその時点で
すでに放映番組枠がターゲットにしてきた年齢層とのズレが生じていたのに、

都合の悪いことには見ないふりで蓋をし、中二病全開の内容で思春期の子供たちの関心を巧みに取り込みながら、同時に
依然として幼児相手にも、それぞれエゴに翻弄されては無意味なバトルを繰り返す未熟な「ヒーロー」を理想像として提供してきた、
社会で生きる上での基本的な善悪の判断を学ぶ以前の幼い子どもらに、「正義は人それぞれ」(すなわち「善も悪もない」とする
退廃主義、ニヒリズム)の害毒を垂れ流し続けた、

よくそれで、観続けてきた当時の子供らへの悪影響は全くない無関係だ、と言えるものだと思う、
どこからそんな自信がくるのか、そういう口先だけで誤魔化すのは止めてもらいたいのだ。

しかも過去さんざんやってきた、子供番組の作り手としてあまりに無慈悲な所業への反省もなく、
映画の方でもTVの方法論の延長で(悪趣味としか言いようがない)
ヒーロー同士が無益なバトル合戦を繰り返してきた。

それに対して殆ど誰からも批判の声が上がらないのは、
対立して左遷された某Pのような二の舞は避けたい作り手サイドと洗脳によって全肯定しまくる視聴者サイド、さらに内心では
不満を抱くもその多勢にたやすく迎合するタイプもいて、という全方位どこをとっても内向き思考が、
周りに結果的に二重三重の防御壁となって取り巻いてくれてるからで、この構図の情けなさ馬鹿馬鹿しさに
我ながら匙を投げたくなるのも不思議はないなと、まるで他人事のように、それも已む無しと頷けてしまう。

特撮ファンには、超のつく保守的な身内思考が根付いていて、
無意識に異物を排除しようとする傾向を強く感じる。
外からの視線をあまり意識せず、それを意識させるような指摘には、過剰な防衛意識が働くのかもしれない。

身内同士を過剰にかばい合って(裏を返せば牽制し合って)安心するような、
嫌なベタベタした風通しの悪さだけ、何とかならないものか。

何か発言するたびに派閥の論理で憶測され、全肯定か全否定かの二択以外はあり得ないと無邪気に信じている、
あの息苦しい閉塞感こそ、どんな害毒にも勝る最強の害毒だと、一人でも多く気づいてくれたら、目覚めてくれたら
そして成熟してくれたら、と願うばかり。

みんなで内向きに閉じていて、ただトップの下す指示に従えばいいってもんじゃないだろう、
おかしいと思ったらその都度それぞれの忌憚なき意見を、声を、
今のようにヘンに萎縮することなく発信していければ、少なくとも今よりは健全な状態になるんじゃなかろうか、

誰もが「彼」に対して腫れ物に触るような扱いをする、せざるをえないのは、それを暗に要求されているからか、
それとも過剰反応なのか、私は後者じゃないかと見ているんだが。
もっと率直に声を出す人が増えれば、今まで届かなかった声も届くかもしれないじゃないか。なんて見通し甘いですか。