さらにドストと平成ライダーの話。※つぶやき(12/22分)を附記

これで三回目になるのか(タイトル変えてしまったが)。

後からいくらでも言い落としが見つかるんで
キリがないんだけれども、なるべく努めて簡潔に、もう少しだけ補足追記を。


そもドストエフスキーはこれまでの話にどう関連するのか、ただ本題の接ぎ穂として
出してきただけか、と突っ込まれそうなので一応説明しておくと、

ドストが『悪霊』に込めたメッセージや人物設定には、平成ライダー考に敷衍できる要素に事欠かず、
意識して読んでいくと気づくことが結構あるのだ。
(たとえば自己矛盾に引き裂かれた末に自殺に追い込まれる『悪霊』のキリーロフによって
龍騎』の「正義は人それぞれ」(極端な相対主義による善悪を問わない全肯定)が、その限界と欺瞞にほどなく陥ることとなる
破綻の証明でしかないのが窺い知れるとか)

ドストが自著『現代の欺瞞の一つ』で語った

”疑いと否定、懐疑論が横行する時代、社会の基本的信念がゆらぐ時代には、
この上なく純朴な人間でさえ、イワーノフ殺人にみる「ぞっとする悪行の遂行」に引きこまれる可能性がある”
”しかも、争う余地のない卑劣な行為に身をまかせながら、自分は卑劣漢ではないと考えたり、
卑劣漢とみられずにすんでしまうことがある”
そして”そこにこそ「我が国の現代の不幸が存する」”
(『謎解き悪霊』亀山郁夫著より)
は、19世紀末ロシアのみならず、現代日本にも通用する慧眼だろう。

亀山解釈では他にも、『悪霊』での各登場人物がレッテル化されたキャラを演じる「仮面劇」の側面についても言及し、
本編での(引いてはヨーロッパにおける)「仮面」の取り扱いを
”本来的には「負の」カテゴリーに属し、常に悪魔的ものの属性として存在している”と指摘していて、
以前より漠然と感じてきた平成ライダーへの「昭和との決定的違い」は、
或いはこの仮面の、さらにいえば変身の、概念の違いにあるのではないかと興味深かった。

平成版の一部作品(ダークヒーロー的役割を担ったキャラなど)の特徴として、
個体としての自分らしさを脱臭した、記号化による便利な隠れ蓑的儀式が、
「変身」の実態ではなかったろうか。

この異形は本来の自己ではないのだからと「割り切って」滅茶苦茶な暴れ方が出来る、
そして犯した悪行への自覚も反省も、極端に薄くなる、
変身後の外見を、それは自己を引き受けない、引き受けなくていい姿とみなす、

仮面ヒーローの匿名性を逆手に取った背徳的な快楽は、
変身者の無責任な暴力について、どこまでも制限なく寛容だった。
自分じゃないものに変身していたから仕方がない、との言い訳が
あらゆる理不尽な暴力に先行し優先しまかり通った、そうではなかったか。

白倉P印の平成シリーズが、あの日曜朝の子供向けSHT放映枠でもなく
(もっと上の年齢層をターゲットにした深夜枠とか)、
また仮面ライダーでもなかったら
(新規オリジナルのヒーローだったら)
どんなに良かったかと、堂々巡りの詮なき「もしも」が頭をよぎる。

ライダーはW(ダブル)から始まる平成二期からで良かった。一期のは別枠オリジナル仕立てで見たかった。
と言うと決まって、シリーズを延命させるため仕方なかったのだと、尤もらしい理由が幅を利かせるのがこれまでの常だが、

そんなもん東映の身勝手な屁理屈であって、映画方面で無駄に量産し続けた経営下手を、視聴者にその都度
尻拭いしてもらってきた、が偽りなき実態であり、
「平成のシリーズ化がライダーを救った」などとトンデモ美談に仕立てたのが巧く当たり、
視聴者を味方につけるのに成功しただけのことである。
別にライダーを無理やり延命させる必要などなかったのだ。

東映の側に、オリジナルで勝負するより既製の有名ブランドに乗っかる方が安心、との
守りに入った損得勘定がなかったとは言わせない、
平成ライダー(一期)の、本来あったかもしれない「もしも」を想像すると、いつも複雑な気持ちになる。

そしておよそ10年かけて、作り手受け手ともどもに知らず知らず浸透してきた、
暴力と倫理のアンバランスという「欠落」の亡霊が今だに残っているから、
第二期に入っても時折首を傾げるような、映像なり脚本なりの暴力表現のおかしさ異常さが、
散見されたのではないかという気がしている。

無意識に暴力表現に対し鈍感になっている、まるで大したことではないかのように錯覚されている、そんな気がしてならない。
悪しき影響は主流ターゲットの子どもたちだけでなく、
作り手の大人たちにも及んでるとしたら、「大したことはない」なんて軽々しく流せないはずである。

平成ライダーシリーズへのいかなる批判も、悪意による心ない中傷と受け取るファンの心情を慮るに、
作品批判が、それを好きな自分への批判へ、自動的にすりかわって理解してるからではないかということと、

本人が無意識に感じている「後ろめたさ」、それは平成ライダーシリーズによって、
メイン視聴者たる子どもたちの遊び場を、自分たちが結果的に奪った形になったことへの、微妙な罪悪感、
立場的な居心地の悪さ、から過剰反応を示してしまうのかもしれず、

しかしそれは(声を大にして言うが)視聴者サイドには何の落ち度もないのであって、
そういう微妙な気持ちにならざるをえない放映枠で、番組内容とメインターゲットが合致しない、
不幸な状況を長らくゴリ押ししてきた東映サイドの責任なのは、誰が見ても明らかだろう。
むしろ視聴者は「美談」の共犯に引っ張りこまれた被害者ではないのか。


※追記として。

(略)ブログ本文では、あえて平成ライダーの負の側面に焦点を当てて語ったが、
絶賛一辺倒の不自然さへ一石を投じ、評価のバランスをとる必要を感じたからで、それ以外の他意はないゆえ悪しからずです。
2012年12月22日 - 15:41

仮面ライダーW以降の平成二期の流れを今後も守ってほしい、子供番組の作り手たる矜持を失わず。
誰が讃えずとも私が讃える、「未来を育てる」重い責任を伴う比類なき価値と意味を持つ、
これ以上の大切な使命を帯びた仕事はないと。
日本のヒーローの優しき魂の「伝統」を、次世代に伝えるべく頑張って。
2012年12月22日 - 15:44