「好意」の表出は賞賛だけに限らない


興味を抱いたらとりあえず録画しておく習慣のせいで
瞬く間に結構な量の録画が溜まるのだが、ざっと内容を確認し食指が動く分に関しては
まとまった時間の余裕がある時などにちまちま消化作業に地味に取り組んでいる。
おかげで視聴時は放映時との時差が発生するケースが殆どかもしれない。
リアルタイムで観ることはあまりないような。

一旦録っておいたものを、早送りや巻き戻しやコマ送り状態を駆使しながら、
じっくり見入ったり、逆につまらなくて飛ばしたり。
映像作品に本を読む時の自由が生じるのが魅力なのかもしれない。
最初を飛ばして途中から読んだり、気に入って(または気になって)
何度も同じ箇所を読み返したり。

録画して映像を楽しむのは、そういった意味で読書体験に通じる気がする。

むろんリアルタイム視聴(映画館での上映を観客の一人となって観る場合も含め)の
良さも否定しない。享受の仕方は色々あっていい、
むしろ、視聴環境の多様を否定する(そこに優劣をつけて差別する)のは今や時代錯誤だろう。
選択肢の広がりを歓迎すればいいのだ。誰に迷惑をかける(orかけられる)じゃなし。


作品の感想が文章化に結びつく際の衝動に、「投げかけられたボールへの応答義務」が
その根拠の大半を占めてきた分、それをやることの意義が揺らぐとてきめん意欲が著しく
低下するのは道理といえば道理である。応答義務を果たすことが、何かなんでもいい、
社会と他者にほんの僅かな意義であれプラスの意味で寄与しないのなら、それは無駄なことだから。

作品の感想は、基本的に作り手に向けたメッセージであり、良しにつけ悪しきにつけ、
送られた品物が放つ衝撃の強度に比例する、こちらからのリアクションである。

受け手のリアクションには思い入れや愛着の度合いに関係なく、通り一遍の口当たりのいい
賞賛以外求められていないと、そういうことなら
期待に応えられない人間は、茶番に付き合えない人間は、降りるしかない、止めるしかない、




感想が作品を「応援」する目的でなく、単におのれの知名度を上げたい、皆の支持がほしい、
作品を利用して「ドーダ」的自己満足を充足させたい、
そういったいかにもショボイ「自慢」だの「自慰」だのに耽って、得意になって、
で、それが何なんだ、と思う。

小さすぎる。
どうでもいいじゃないかそんなもの。
似たような意見が先にあるのを知ってるなら、潔く引っ込めたらどうだ、そのちっぽけな自意識。
二番煎じと知りながら追随して何になる。
そんなに「その他大勢の取り替え可能なモブ」になりたいのか。

もっと自分を信じよう、でないと
かわいそうだ自分が、
あんまりだ、その仕打ちでは、

自分で自分の価値を下げるようなことは、止めよう、
君はもっと素晴らしいんだから。
唯一無二なんだから。





人をむやみに窮屈にさせる
四角四面な思考および感性の頑迷と、
警戒心なき無防備な好意につけこみ、
ここぞと居丈高に踏みつけにして恥じない傲慢によって、

行われる言葉狩り
異物は締め出される、

「太鼓もち募集!」の張り紙を毎度チラチラさせてさ、
それへ皆さん我先にと殺到していらっしゃる、

この醜悪、この滑稽、
いやもうすごい見世物ですとも。

すごすぎて目を鼻をやられる。

不細工不細工。臭い臭い。汚物まみれの茶番よ。


これだけは胸を張って言える。
彼ら過去のヒーローを愛してるのは、一方ならぬ敬意を抱いているのは、
「あなた」じゃなく、我々であること。
この切ないまでの思いの深さを、作り手なら知るべき、
想像して、配慮してしかるべきだろう。

なのに
徹底的に「ブランド」の有する過去の栄光を踏みつぶし、
しこたま泥を塗って馬鹿にする、
コケにすることに、悦びを覚える

それ紛れもなくビョーキですから、危ないですから、
何のトラウマだよ、代替作用だよ、いい迷惑だよ、

大事な「お客さん」に依存してウサを晴らしてきた自分を恥じないのか、恥じたほうがいいよ、
会社を救うため、そら立派な大義名分ですが、隠せないから本音のところの「憎悪」は、

いったい何をぶっ潰したいのか、再建する才覚も持ち合わせないのに(壊しっぱなしでそれっきり)
パラノイア的に徹底的に潰すだけ潰して、あとは後進に任せたって
(追記:いやもっと酷い、後進の王道に戻そうとする努力を、自らプロデュースしたライダー映画で足引っ張ってるんだから!)
どんなワガママなんだ、
自慰はもういい、某脚本家ともども、どこまでガキなのか。
追記:
某脚本家→ 劇中に必ず主役を悪口陰口の二枚舌と二重行動で陥れるサブキャラを登場させ、「子供番組なのに!」
陰湿な憎悪渦巻くドロドロ展開ばかり書き続けて、かつて特撮ヒーロー番組をいくつも担当する有名脚本家だった父への
ルサンチマンを晴らしてきた井上某おぼっちゃまのこと。

そういうどうしようもなく欠落したおのれの
(子どもを犠牲にして、表向きは「ダシ」にして、おのれの欲望を優先させてきた)クズっぷりを
認めましょうや、いい加減。

ねえ、社内の誰がここまで「親身になって」批判できますか、
ねえ、そういう空気を誰が作ってきたんですか、分かってますか。