「ならぬことはならぬ」に教えられること


昨晩の『八重の桜』で繰り返し登場したこの(記事タイトルにした)台詞に、
考えさせられた。

ならぬことはならぬ、つまり、公的(社会的)に許されない禁止事項を
問答無用で禁じている。
「お前が属する社会が定めた倫理道徳上の決まりごとを
(その集団を形成する一人としての自覚を持って)厳守すべし」と戒めているのだ。

本編中で紹介される「什の掟」には、儒教的傾向が色濃いなど、
もちろん会津というお国柄の特徴が滲み出たローカルルールの傾向が見られる一方で、
特定の集団に限らない、社会が健全に回っていくために不可欠な(弱者虐めや虚言や卑怯を
禁じる)条項も含まれる。

突き詰めると、これは「義務」と「権利」の話に他ならず、
さらには最近の記事とも関連するが、
これもまた「良し悪し」と「好き嫌い」の違いの話に行き着く。


「義務」は社会に対し個人が払う(いわば)代償であり
「権利」は個人が社会に対し求める(いわば)報酬である。

「良し悪し」は社会的な(または社会を意識した上での)判断基準であり、
「好き嫌い」は個人的な(社会を意識する必要のない)判断基準である。


個人の自由や権利は社会の安定維持によって支えられている、保証されている。
だからこそ権利より義務を、好き嫌いより良し悪しを、優先的に考える必要も生じる。
それが結局まわりまわって個人のため、自分のためともなる。

世の中の仕組みはそういう風に出来ている。
そしてそれをこそ人と人との繋がりというのだと思う。
決して情緒過多にお手軽な感動を呼ぶ、お涙頂戴話としてではなく。
もっと切実かつ現実に即した実際的な意味合いが
社会が要請する倫理道徳基準のベースにはある、ということは
心に留めておいてもいい。


義務からは逃げても権利だけは貪欲に主張する生き方を、
恥とも無様とも浅ましさとも思わない「教育」を、国が社会が大人が先導してきたツケを、
未来を無駄に食いつぶす共食い自滅レースを散々けしかけてきたツケを、
これから一人一人が地味に粘り強く諦めずにコツコツ払っていく、それ以外に
未来に希望を灯せる方法はないんだろうし、
他国のような宗教という精神の柱を持たない、この国の特殊かつ致命的な脆弱性
今のところは倫理道徳の規範を以ってカバーする以外
(知識だけでなく心の教育に力を入れていく以外)なかろうと思う。

ならぬものはならぬ、とは、いけないことはいけない、であって、要するに
悪いことは悪い、ときっぱり断じた言葉である。

言い切るには勇気がいる。言葉の責任を引き受ける覚悟がいる。
それでも社会的に間違ったことなら見過ごすわけにはいかない、と考えるのは
献身の精神に相当するのかもしれない。

脚本の山本むつみによれば

(本作は)人間の勇気と献身がテーマ、
ヒロインの八重は命懸けの戦いの最中であろうと
朗らかさを失わない活き活きした生命力の持ち主で、
彼女の持ち味は頑固さと好奇心、だそうだ。

勇気と献身。朗らかさと逞しさ。
容易く信念を曲げない頑固さと、太陽の如き燃えるような生命力。
どれも昔は当たり前のようにあって今の日本が失いかけている、
人の心のあり方のように思う。





余談。

だから平成ライダーに関しても、作品に対する私の個人的な好き嫌いの感情と
社会的(番組枠的)な意味で捉えた上での良し悪しの判断とは、実は全く一致しない。
こんなことは言うまでもないと思うのだが、違いの分からない人が多すぎるのが
辛いところ。