仮面ライダークウガ関連つぶやきまとめ(7/5-7/16)

7/5

小説クウガ読了。グロンギ絶対悪を印象論に落としこむ危うさが気になる。「見た目も行動も独特」で「不気味な装飾」を好み、
人間のように暖かな血が通っている「とは思えない」、と偏見交えて語る一条に共感するのは難しい。
そもリントの碑文内容を全て事実で正しいとする根拠をどこに求め得るのか。
posted at 17:12:05

2)グロンギ絶対悪が一方の言い分に偏るアンフェア判断でないと何故言い切れる。
両種族の因縁探るにもバラ女は生け捕りがベストだった。いや一度でも生け捕り前提で対峙したことあったか人間側に※。
誰かの笑顔のため、はグロンギ側にも成立する(この「誰か」は互いの種族限定の意味でしかないので)→
posted at 17:16:49

※追記
後から思い出し。生け捕りに関しては以前の記事に既に言及済みだった、が
メインの荒川脚本でなくあくまで飛び入りサブ井上脚本(GJ!)の配慮であり、当初はその方向性が全く配慮されてなかった事態を
考えるに、やはり根本的な倫理面での欠陥を指摘せざるを得ないと思われる。
つまり後付で何としてでも一時は敵視していた脚本家を利用してでも作品=自分を完璧に見せたい作り手及びファンの擁護が
却って胡散臭さを増幅させる結果となっている。
内輪での最高評価に水を差す外野の意見に真摯に耳を傾ける以前にただただ潰そうと躍起になる、それ自体が既にキナ臭い
作り手とファンとが利害一致で共謀した「作品批判を一切認めない」という意味での「勧善懲悪」の浅はかで酷い体質を
露見していると言えまいか。注:勧善懲悪にも人に対し、行為に対し、とそれなりに段階があり一律に「悪」ではないわけだが、
それすらも理解しない(浅はかな一面的イメージ頼りに一緒くたにする)短絡脳が多すぎる重大な弊害の嘆かわしさ。

3)→情動に引っ張られた動機ゆえ公レベルでは意味をなさない。個人の感情に警察が乗っかるからおかしな事になる。
グロンギの優生思想とエゴ立脚の排他主義こそ全力で否定しないと。
共存共栄の提案蹴ってなお攻撃してくるグロンギだから仕方ない戦うしか道はない、と丁寧に段取りつけてくれないと。
posted at 17:18:24

4)グロンギとは何ぞやの疑問を単純悪で済ませずに、後付でもいいから何か説得力ある掘り下げを期待したのだが。
バラ女の件にしろマルエム法改正の皮肉な成り行きにしろ「我々は何一つ間違ってない」の強弁に終始したのは残念。
グロンギとは完全に意思疎通不可能としたいなら→
posted at 17:19:50

5)せめて最初から会話不成立な設定の進撃の巨人方式でないと、なるほどと思えないし腑に落ちない。
対話を諦める見限るのは駄目元で試みてからでも遅くない、生け捕り作戦も同様。
せめて相手を知る努力してから殺戮辛いだの愚痴るのが筋ではないかと思ってしまう。
posted at 17:26:29

7/6

本日一日かけて『語ろう!クウガアギト龍騎』を大変興味深く面白く読んだ。感想は山ほどあるが追々にして。
ひとつ発見したのは、一口に「子供」といっても該当する年齢範囲が下は未就学児童から上は思春期の未成年まで幅があるのに、
いったい各語り手がどの辺りの年齢を想定してるのかが曖昧なこと。
posted at 20:39:40 

2)ちなみに小学校低学年以下の子供に、自分で善悪を判断しろと突き放す大人は無責任の謗りを免れないと思うがどうか。
SHTの時間帯からして戦隊とプリキュアに挟まれてるライダー「だけ見ない」選択はまず考えにくい彼らに、
正義じゃなく我欲のために戦うライダーとは名ばかりの怪人大集合だった→
posted at 20:50:30

3)(と井上敏樹も認める)龍騎を誰が推奨できるだろう。あの年頃の子供は思春期の煩悶だの人間ドラマだの関心ないから
どうしても浅倉みたいな分り易い強さをヒーローとして憧れる、やっていいこと駄目なことの社会の基本ルールを教わる段階の
幼児が、欲望全開で生きるのがいいと「刷り込み」されて→
posted at 20:55:49

4)それに全く影響受けない、なんてことが本当にあるだろうか。SHT枠のスポンサーの主流ターゲットはあの年齢の子供で、
なのに作ってる作品は彼らの頭飛び越えた別対象に色目使うのでは子供らに申し訳が立たないでしょう。
出会うライダー作品を「選べない」し「何年も続けて見るとは限らない→
posted at 21:02:07  

5)即ち一過性の経験になる可能性高い」彼らにとって斬新とか深いとか大人っぽいとかに何の意味があるのか、
作り手とオタクの自己満による「良し悪しの基準」なんぞ却って邪魔で迷惑なんじゃないのか、冷静に一歩引いて自問するのも
無駄じゃないと思うのだ。
posted at 21:04:35

7/8

さて休日挟んで間が飛んだが、語ろう!クウガアギト龍騎、のおおまかな感想(というか引き続き疑問点から先に出します)
その2など。
posted at 12:14:21

2)「殺戮種族なる設定を否定する」事と「グロンギの怖さを否定する」事とは全く意味が違うし、平成ライダー一期に関して
「SHT枠もライダー縛りも取っ払ったオリジナルシリーズが良かった」は「内容自体がつまらない」の意味ではない。
何故二つを同義に扱うのか(扱いたがるのか)、→
posted at 12:16:07

3)その短絡理解(というか誤解)が隠蔽するものこそ直視すべきだろうに。何故直視しない(できない)かな。
グロンギを殺戮種族と設定し、わざわざ人種や民族差別の格好の言い訳提供しなくとも、もっと巧いやり方はいくらでも
あったはず。人種民族対立に免疫ないガラパゴス日本では通っても→
posted at 12:17:37

4)世界基準ではトンデモ設定間違いなし、下手すりゃ対立煽り目的の洗脳に悪用される危険度なのが何故わからない、いや
わからないフリする。繰り返すが子供の身体感覚に訴える得体のしれない恐怖は大事という主張と、得体のしれなさの欠片もない
「殺戮種族」設定とは「同じ意味ではない」。
posted at 12:24:59

5)未知なる恐怖を具現化したグロンギは秀逸、には同意だが種族本来の残虐性とか言い出すと正直冷戦時代のリアタイ経験者は
これだからとため息つきたくもなる。身体経験として獲得したある年代以上のリアルを今の子供にまで正しいと無理強いするのは
やはり違うと思う。
posted at 12:28:13

語り手の方々の年齢見ればああなるほどねと理解しただからその辺は。
posted at 12:30:54

6)具体的に共感ポイント多かったのが宇多丸井上敏樹の両氏で、前者はアギト絶賛の熱っぽさがいいし(つられてラス前の
アギトのために!に感動したの思い出し、あれは最高に嬉しかった)、後者はとぼけた茶目っ気ふりまきながらさりげに鋭いとこ
突いてくる話芸面白すぎ。
posted at 12:41:05

7)→なんかもうケータイストラップかなんかで二等身のトシキ人形とか作って欲しい。
指で勢いよく弾くたびに、いい台詞だろ?いい本だろ?いいこと言ったろ?と得意げに喋るウザさ一歩手前のやつ(苦笑)
posted at 12:43:18

8)あと高寺Pが思うライダーらしさは「異形と人間とのツーショット」だというのが眼から鱗の指摘で素晴らしかった。
一番おお!と盛り上がった箇所だったかも。で、もしや響鬼明日夢を鬼にしない方向に内容変更したのも或いはその思いが
無意識に直感となって表出したのではと推測してみたり。
posted at 12:45:32

クウガ25&26話をめぐる切通氏による白Pの主張の代弁「少年が栃木から東京に来るだけなんだから
家出ってほどのことでもないし、自由に行動させてあげればいいじゃないか」P184について。
多数の死者も出てるグロンギ出没する東京には危ないので行くなと→
posted at 15:33:37

一度釘刺したのにそれでもふらふら向かった生徒の身の安全を担任が心配するのは当然だし、
そも家出なんて誰も口にしてなかった気がする。
posted at 15:34:45

少年が最初に訪れたのは実家の跡地の駐車場で、それが亡きお祖母ちゃんへの懐かしさからなのはナレからも察せられるのだし、
両親始め周囲の大人には警戒心や諦めを抱く少年も、自分が無条件で丸ごと温かく包まれていた過去のイメージ上に
「おばあちゃん」の存在があったのは想像に難くない。
posted at 15:36:06

次に訪れる(きっとその昔頻繁に通ったのだろう)駄菓子屋で、わざわざアイス買ってまで懐かしい売り子のお婆ちゃんに
一目会い他愛ないやり取りしたかったのに、予想に反し孫が応対、思い切って消息尋ねると今は老人ホームにいると返され
顔が曇るくだりにも「おばあちゃん」の連想は働いている。
posted at 15:39:00

少年は(本人は認めずとも)誰かに気にして欲しかった、が両親は当てに出来ず、先生も心の距離ある大人の一人で、
唯一気を許せるのは(あれこれ上から指図せずただ温かく包んでくれた記憶の)「おばあちゃん」だけ、それははっきり意識に
上った考えでなく何となく気づけば足が向かったのだろう。
posted at 15:43:41

だから誠実に押し付けがましくなく話を聞いてくれる、大らかに受け止めてくれる大人がいれば
別におばあちゃんでなくてもいい、それが五代だったと。
五代の対応は理想的で、ある意味ヒビキにも通じるまったり感の持ち主、気にかけてくれる大人がいる、ただそれだけの嬉しさ
頼もしさってあるから。
posted at 15:47:18

五代君の良さは駅で切符購入してるそれらしき男の子見かけてもすぐには声掛けず、後ろからそっとついていくところ。
声かけるタイミングを慎重に見計らって、でも全然変な気負いも恩着せがましさもなく、自然にごく自然に、
気づくと寄り添ってる距離の取り方の絶妙に感心する。
posted at 15:50:18

という風にグロンギを殺戮種族とした設定以外なら、クウガ擁護はいくらでも出来る、だからこそ複雑な思いを持て余すわけで。
posted at 15:52:21

7/10

既読前提で書いたので主旨が分かり辛いかもしれない点を遅ればせながら補足。
語ろう!クウガ〜本に関する一連のツイで言いたかったのは以下。
アギトの真魚(女子高生)は家出であっても、クウガの拓(小学男子)は家出ではない、なのにその二つを
「同じ家出の描き方も対照的」だと→
posted at 05:13:26

2)する切通発言をベースに並列に比較し 「解釈の違いがPの違いを象徴的に表している」結論に結びつけるのは
強引に感じたということ。
これは視点の柔軟性云々とは全く関係ない話、というのも両者は年齢から環境から状況から違う、さらにダメ押しで
「同じ家出」でもないとくる→
posted at 05:15:08

3)つまりこの二つの例の比較からPの考え方の違いに持っていくのは無理がある。またPの考え方の違い以前に
(劇中提示されている諸々への)事実誤認をまず指摘した上でないと、「解釈の幅として許容範囲」とはいえないはず。
まず結論ありきの予定調和に見えては勿体無いと思う。
posted at 05:22:13

@risaku わざわざご返答いただき恐縮です。気付くのが遅れ随分な時間差リプになってしまい申し訳ないです。
真魚ちゃんに関しては仰る通りなんですが、すでに前段で切通さんから「家出した少年」との表現が出てきたのを、谷田さんが
そういえばと具体的に話を広げる形で受けられた、というのが→
posted at 11:37:37

@risaku 2)拝読しての印象でした。拓くんが当日中に帰るつもりだったのは帰りの切符購入する描写で明確なので、
「家出にあらず」は一つの解釈というよりは劇中内事実だろうと思いましたし、読み手の誤解に繋がる可能性ある流れが
気になった次第です。→
posted at 11:40:00

@risaku 3)拓くんは家出ではないが、誰か気持ちを打ち明けられる大人の存在を無意識に求めていて
過去自分を受け入れてくれた「おばあちゃん」たちに無意識に会いに行った、それが25&26話だと思う私個人は、
「家出にあらず」は白倉Pと、「人間としての五代くんの対処」は切通さんと、→
posted at 11:41:44

@risaku 4)それぞれ見方を半分づつ共有している格好かと思います、ので一方への偏った肩入れはないつもりです。
何度も読み返したくなる内容の濃さ熱さから読み手として一緒に熱く語りたい誘惑につい駆られてしまいます。
素晴らしい御本をありがとうございます(谷田さんにも感謝です)。
posted at 11:43:35

7/11

親と子も、教師と生徒も、直線的な上下の関係、だから煮詰まり易い、率直な意思疎通が錦の御旗な大義名分の前に無効化される、
不動とも思える上下関係の突破口は、おじさんおばさんだのご近所の知り合いだの「大人と子供」の直線以外の
別の関係性パターンにある。
posted at 13:47:4

2)その一つのモデルケースがクウガ25&26話だと思ってる。
子供にかまけていられないほど忙しい(連絡がとれない、と神崎先生がぼやくくだりあり)両親に頼れない少年にとって
近いようで遠い距離の「先生」が、その先生のかつての教え子たる一青年、決して特別なヒーローとしてではなく→
posted at 13:48:59

3)一人の成人男子として少年と関わる、により行き場なき追い込まれた孤独から救われるエピソードが示すのは、子供には
親とか教師とか直線的上下関係に属する大人以外の間接的な立場の大人の存在が必要ということ。
かつて神埼の生徒だった五代が、神崎先生と拓少年の直線的上下関係にありがちな→
posted at 13:51:04

4)煮詰まり感を解き、少年に先生が如何に彼の無事を案じ、その抱えた悩みに真摯に寄り添おうとしたかの、偽らざる本心を
伝える役目を結果的に果たすことになった。五代は少年と恩師のギクシャクした心と心をしっかり繋ぐ、前述した直線関係以外に
くくられる大人のある種典型であり理想例であった。
posted at 13:52:25

5)五代のような大人の立ち位置だと縦ではなく横の関係で繋がれる、それが強みとなる。
石段に座る少年の隣に五代が腰を下ろす際、自分は一段下の段に座り直すのだが、あの仕草一つで本エピのテーマを余さず
表現したといって過言でない五代の、少年と目線を合わせようとしたその無意識の行為に、→
posted at 13:54:34

6)上下という縦関係にはない横の繋がり=フラットな関係ならではの壁のない気安い雰囲気が一瞬で生じ、少年の警戒を解く
契機となる。何気なく描かれているが説明台詞一切なしに全てを表現したあのショットの秀逸は今でも色褪せない。
posted at 13:55:36

7)神崎先生は先生だけに当然ながらウザい。喫茶ポレポレにおける説教まみれな愚痴の数々は健全な子供にはまず間違いなく
疎まれる類の大人の言い分だが、それで先生の真心にケチがつくわけでは少しもない、分かり合えない、はすれ違いによっても
生じるから。神崎先生の生徒を思う真心が→
posted at 13:57:23

8)教え子五代を介して初めて拓くんに伝わる(伝わったと視聴者にわかる)ラストシーンの感動は、先生と生徒という固定した
関係だけでは迎えられなかった。間に立つ絶対上位に位置しない大人の存在が如何に貴重かを思い知らされる。
posted at 13:59:09

7/16

『語ろう!クウガ アギト 龍騎』関連ツイを読み改めて思うこと1)。
幼児含む子供番組が最低限守るべき倫理観を一般論の見地から断罪するのは、すでに基準の軸がブレているのでその事自体に
さしたる意味は無いように思う。またクウガが勧善懲悪か否かの判断の決め手はやはりグロンギの設定で、(続く
posted at 14:39:22

2)最近出版されたメインライター荒川稔久氏の小説クウガでは「グロンギ族は人間とほぼ同一な存在だが、殺戮をゲームとして
楽しむ好戦的な種族」P15と
既にある作品内言及を継承する一方、語ろう!でのグロンギ認識が「人間とは異なる未知なる存在」に集約される→
posted at 14:44:08

3)(ように見える)落差に少なくとも読み手は意識的であるべきで、そこをきちんと踏まえないと、たとえば前述の、
子供番組と一般論の各基準を乱暴に同一視することを寛容さに読み替える(あえて言うが)誤魔化しにも繋がる気がする。
基準をどこに求めるか、「寛容さ」とはその混同ではないはず。
posted at 14:46:13

4)更に勧善懲悪について。クウガの勧善懲悪を否定するならば、「こんな奴らのためにこれ以上誰かの涙は見たくない!」
この五代の叫びはそっくりグロンギ側にも反転可能な戦う理由の正当化になりうる点に着目しなければならない。
こんな奴ら、と憤るのはあくまで主観で
posted at 14:48:17

5)感情的判断でそれはグロンギ側にも当然にしてある、ということを認めることからはじめなければ
単なるご都合主義の言葉遊びの域を出ない、ということ。
posted at 14:49:11  

6)クウガグロンギと555のオルフェノクを同列にみるのはおかしい、とする見方は即ちクウガの作風は勧善懲悪だと
認めるに等しいのだが、一方でグロンギは人間と同列には扱えないとし、他方で「毒」を受け入れる寛容さが足りない社会を
批判し、真逆の主張たるどちらにもクウガ擁護というだけで→
posted at 14:53:17

7)簡単に同意してしまう、またその矛盾が見過ごされている怖さにもっと自覚的になっていい。
posted at 14:54:48

8)種族(人間)VS種族(グロンギ)という図式の勧善懲悪を否定するなら、人間だけに肩入れせず敵対するグロンギ側にも
言い分があると双方から一方引いた公平な第三者目線のスタンスで書くしかない。
ここでグロンギを「人間とは異なる未知なる存在」とするためには種族の設定を無効にしなければ→
posted at 15:02:42

9)それはオルフェノクと何が違うのという話になってしまう。感情論でなしに今までに提示されたグロンギに関する情報を
付き合わせれば、クウガが勧善懲悪なのは動かしがたい事実だろう。設定に問題ありと重ねて主張する根拠はここにこそある。
既にある事実を今さら躍起になって隠蔽するのでなく→
posted at 15:06:55

10)辻褄の合わなさ、矛盾点に真摯に向き合う勇気こそ作り手とファン双方に必要だし次に繋がる原動力になるんだと
思っている。無闇な溺愛は何も生まない、閉じてて不健康で濁ったその正体は作品に名を借りた自己愛だと見破る勇気も必要と
重ねて主張したい。
posted at 15:08:35